パリ4区は島と右岸の都心部で、マレ地区の南半分には緑の多い閑静なヴォージュ広場があります。初渡仏1971のときヴィクトル・ユゴーの記念館を訪ねました。近いバスチーユ広場からさくらんぼ畑通りをたどれば、庶民的なカフェ・レストランLE TEMPS DES CERISESがあります。なんどか近くを通りましたが、日曜や復活祭の休業、夏至音楽祭の早めの閉店で、お茶を飲んだのは一度だけ。開業は百年もまえで案内書には昔ふうの定食屋とあり、かいわいの常連さんが多いようです。店内外の装飾もかわいらしく、こじんまりして感じのいいところでした。マレ地区にはパリ市立歴史博物館「カルナヴァレ」があり、再訪でも「ベル・エポック」部門をじっくり見ましたが、19世紀「パリ・コミューン」関連は係員によればいまはクローズとのことで残念でした。
すぐ近くの狭い通りは、ジャン=ポール・サルトル作詩シャンソンの舞台<ブラン・マントー通り>です。ジュリエット・グレコが歌手デビュー間もないころ、まだレパートリーの少ない彼女に哲学者がプレゼントしジョセフ・コスマがあらたに曲をつけました。近くにはモーヴェ=ギャルソン通りがあり由来は中世のようですが、アダモの同名シャンソン<ろくでなし>を思い出させます。Rue Geoffroy l’Asnierのサントル・ド・ラ・シャンソンではシュヴァリエの推薦により1950年ごろパタシュがデビュー。彼は同郷(20区の下町メニルモンタン)の後輩を愛して育てたのです。
市庁舎ではロベール・ドアノー写真展2012.4を鑑賞しました。パリ市長がジャック・シラク(在任1977~95)のとき、夫人の主催で市長誕生祝い晩餐会1988.11.27があり、歌手ではアズナヴール、サルヴァドール、リーヌ・ルノー、ミレイユ・マチュー、外国からは芦野宏夫妻が招待されます。芦野はお祝いに<いつの日かパリに>を歌いました。このときは第3回日仏親善コンサート(1区ホテル・ムーリス)ツアーで、後援会員も滞仏中でした。シャンソン・ファンのシラク市長はE.ピアフ広場、G.ブラッサンス公園、ティノ・ロッシ公園(現代彫刻展示と併設)をつくらせております。
《パリ市立劇場》1874,1600席ではトレネ1961、C.ヴォケール73、イヴ・シモン75、A.プリュクナル81の公演あり。後ろはアドルフ・アダン通り。バレエ曲『ジゼル』で有名ですが、いちばん好きなクリスマス・ソング<真夜中のミサ>(英語名オー・ホーリー・ナイト)の作曲者です。
5区は左岸でサン・ベルナール河岸を含んでいます。ロベール・ドアノー撮影「詩人とワイングラス」は、この河岸でプレヴェールがカフェテラスの円テーブルに寂しげな横顔を見せているのでした。東にアラブ世界文化センター、パリ第6・7大学、西にソルボンヌ大学がある文教地区カルチエ・ラタンは、五月革命とXマスイヴにはじまるオペラ『ボエーム』を思い出させます。カルロス・クライバー指揮、ミミ役がミレルラ・フレーニで来日スカラ座を観たのは1981.9.21でした。
この区では祖国貢献者の廟「パンテオン」も目立つ存在です。東にはレッサーパンダなど、動物もいる植物園は広くておもしろく、自然史博物館もたのしい。第6・7大学に近いカルディナル・ルモワーヌ通り28番地にはミュージックホール《パラディ・ラタン》700席があります。エッフェルの設計で1889年に開場し万博期間は盛況、94年に閉場。放置後1973年に再開場。再開後の舞台のようすは、フランスのTV番組『パラディ・ラタン スペシャル』(日本で放映)で見られます。
ここでは1990.9.18東京–パリ友好「サンクオム(しますえ・村上・伊東・広瀬・青木) ディナーショー」がありました。歌のゲストは企画構成もされたリーヌ・ルノーと、パリ市ヴェルメイユ勲章授賞式のため滞在中の芦野宏でした。客席にはジャクリーヌ・フランソワやフランシス・ルマルクもいらしていて、芦野宏が歌う<ア・パリ>に作者のルマルクは大激賞されたと伺いました。
東京のパリ年’92には、主役が「レヴューの女王」リーヌ・ルノー、歌はまあまあだがマジックのうまいセルジョ、踊る淑女とよばれるパラディ・ラタンの専属ダンサーたちによるレヴュー『サ・セ・パリ』が渋谷シアターコクーンでありました。わたしは芦野宏がゲスト出演した1992.11.1に招待券で鑑賞。ロビーでお会いした薮内久さんは「本場さながらの舞台ですよ」とのこと。
ムフタール通りは朝市案内ではいちばん有名でしょう。むかしは悪臭のただよう街だったが、「シャンソンを絵に描いたような」通りとも。CD・DVDを探しにはよく訪ねました。(2019.3.18) 後藤光夫©