歌めぐり旅(23)冬の自転車競走

 イヴ・モンタンの邦盤LP(OW1009)ではただ<自転車競走>という題でした。原題は Vel’ d’Hiv’(Velodrome d’Hiver冬季競輪[自転車競技]場)ですが、表題は薩摩忠の訳です。フランス人はベル・エポックから自分で乗るのもレースを見るのも自転車が大好き。モンタンにはピエール・バルー詞、フランシス・レイ曲<自転車乗り>1968もあり、同じように軽快なリズムで歌っています。

   冬の自転車競走  ジャン・ギゴ詞、ルイ・ガステ曲 1948、薩摩 忠 訳詞

 日曜ごとにはメトロはスシづめで満員 男も女も子供もだれもかもみんなが降りる駅はグルネル

 そわそわニヤニヤ落ち着かないのは だれでも大好きなヴェル・ディヴのためさ

 ヴェル・ディヴ、冬の自転車競走スリル満点 小さいときはパパに抱かれて見に行ったよ

 ヴェル・ディヴ、一文もないときでさえ もぐりこんで通ったもの

 Vel’d’Hiv’、背の高い大人のなかに混じって  Vel’d’Hiv’、わきあがる大きな声を聞いたものさ

 これを芦野宏は1957年に歌っています。訳詞の薩摩忠(1930-00)とは『日仏文化協定記念シャンソンの夕』1953.12.6で宝塚時代の「エッチン」こと橘薫の紹介により出会いますが、彼は慶応仏文出身、室生犀星賞の詩人で、堀口大学、藤浦洸門下。芦野がうたう訳詞の多くは彼に負っていて、<パリ祭>はじめ名訳詞の数かずはほかの多くのシャンソン歌手たちにも歌われております。

 芦野宏のコンサート・プログラムは第1回独唱会1954.11.1から600冊ほどたまり、1962年からオープンリールで録りはじめた音源1500曲とBDに収めた映像が600曲(どちらもダブリあり)はあります。芦野の訃報が流れて早々に、東京新聞は「2千曲のC’est la Vie」というタイトルで評伝を載せてくれました。戦後、欧米のポピュラー音楽が解禁されて、戦中の久しい渇望を満たすべく堰をきったようにあふれでます。ジャズ、ラテン、タンゴ、シャンソンのブームがそれで、ジャンルが多様化した今とは異なり、知的なかおりもするシャンソンはひろい層に大もてでした。

 歌手たちは本場とちがい、芸大・音大出が多く、芸大声楽科首席の芦野宏は新曲もすぐに歌い、弾き語りもします。デビュー3年1956.5でシャンソンの持ち歌が200曲とは驚異的なこと。ブームゆえに次つぎと依頼されて初見で歌うこともあったようです。敬愛するティノ・ロッシはレパートリー2000曲といわれ、シャンソンのほかカンツォーネ、ラテン、オペレッタ&ミュージカル、クラシック歌曲など。芦野は内密に学んだジャズ、ラテン・タンゴでポピュラーへと転向してシャンソンを主にカンツォーネ、欧米露日の歌曲・民謡・童謡唱歌も歌いますから、ロッシの曲数に迫るのもふしぎではありません。芦野には詩人や作曲家に献呈されて創唱した日本の歌が、いくつかあります。シャンソンは曲数だけでなく、本邦初演の曲がもっとも多い歌手ではないでしょうか。

 Vel’d’Hiv’[現パレ・デ・スポール]といえば、ロベルト・シュトルツのことを思い出します。彼はオーストリアのグラーツ生まれ、20世紀オペレッタの最高峰『メリー・ウィドウ』初演1905の指揮者です。おもにウィーン、ベルリン、アメリカで作曲・指揮・録音など八面六臂の活躍でした。パリでもカジノ・ド・パリの音楽担当1919、モガドールでオペレッタ『バラライカ』を作曲1938。作品はセアヴス・ドゥ1904、プラター公園の春16、ウィーンは夜が美しい16、荒野に咲く最後のバラ35などシャンソン・ヴィーナーリート2000曲、映画音楽100、『二人の心はワルツを奏で』33ほかオペレッタ50本。LPで楽しんだのは、ウィーン響を指揮した『こうもり』『ウィーン気質』、ベルリン響を指揮した『メリー・ウィドウ』『微笑みの国』と『世界のワルツ名曲集』です。

 大戦が迫る1938年にシュトルツはパリへ脱出しました。4番目の妻の裏切りにより財産もパスポートも失い無国籍になります。パリ市内、収容された運動場であわやアウシュヴィッツへというときに、彼は32歳下の法律学生アインツィ(1912-2004)に救われたのです。その後ふたりはアメリカへ移住し、彼は音楽活動をはじめ、46年に結婚してウィーンに帰り、ワールドワイドな活動を再開しました。1942年7月16日パリで独仏警察隊がユダヤ人を大量検挙し、屋内競輪場に水・食糧なしで拘禁した事件があります。あれは、そのときのことだったのかどうか。(2018.3.18) 後藤光夫©

La Bicyclette
Vel’ d’Hiv’
パリ祭(部分改訂した決定版)
第1回独唱会1954.11.1(表紙画:東郷青児)
ロベルト・シュトルツ(ウィーン市立公園)
日本オペレッタ協会公演2001