シャンソン<エルザの瞳>をはじめて聴いてすぐに好きになったのは、たぶん1960年前後でしょう。芦野宏が原詩で歌唱し、あいだに自分の訳詩(後に藤田宜永訳も)を朗唱しておりました。歌っていたのは1節と7節で、訳も1節か7節のどちらかでした。そのうちに蘆原英了の番組やレコードで<パパと踊ろうよ>などを愛聴していたアンドレ・クラヴォーが歌うのにふれてすっかり気にいりました。原語シャンソンの鑑賞はいつものことで、詩想・曲調でもって大好きになってしまいます。対訳をみると10節ありますが、彼は1,3~5,7,10の6節を歌っているようです。
詩は1942年ルイ・アラゴン、作曲は1954年の共作でした。新進歌手ジャン・フェラと<ふたりの愛の街>などのヴェテラン作詞家モーリス・ヴァンデールのふたりです。J.フェラはアラゴンのほかの詩にも多く作曲しました。芦野宏もうたうLa Montagne1964のように、作詞作曲もして歌います。優れた曲は歌手ならだれもが歌いたくなるものかもしれませんが、<エルザの瞳>は前世紀、わたしはフランス人ではクラヴォーの歌でしか聴けませんでした。いまネットでは、ジャン・フェラ自身も歌っております。かつてアラン・バリエールが自作の曲で歌うのも聴きました。
詩人アラゴンが幼時に住んだパリ西郊ヌイイ・シュル・セーヌへは、わたしは地図でたどっただけ。庶出のアラゴン少年の近所にはプレヴェール少年も住んでいて、いっしょに遊んだそうです。プレヴェールとはデスノス、エリュアールたちとともにモンパルナスのシャトー街54、モンマルトルのフォンテーヌ街42で、1920年代のシュルレアリスム時代とその後にも交友がありました。
1928.11.6はアラゴン、エルザ・トリオレにとって運命の日です。彼が前日にモンパルナス、カフェ・クーポールで呼びとめられた彼女の義兄マヤコフスキーの仲介により、前年27.12.20に開店した駅のように広いこのカフェで出会いました。この日(11.5とも)、アラゴンはマヤコフスキー歓迎の夕べを催したのですが、それがここなのかシャトー街54なのか、また彼らの出会いが和やかだったのか否か両説あります。翌29年からアラゴンとエルザはシャトー街で同棲し生涯、離れませんでした。じつはこの年9月に、アラゴンはヴェネチアで自殺未遂をしています。26~28年つづいた裕福な愛人ナンシー・キュナードとの失恋が原因です。エルザとの出会いはそうした痛手を慰めてくれ、いずれシュルレアリスムからも決別できて、さらに大きな意味をもたらすでしょう。
1939年「奇妙な戦争」第2次大戦がはじまり、1940.6.14にはパリ陥落、国の北半分が占領され、南にペタン首席の親独ヴィシー政権ができます。アラゴンは軍医として応召。「ダンケルク」の危機を脱して、1940.6.24夫妻は再会し、7月には動員解除後レジスタンス運動に参加します。夫妻は1941年ニースへ移り、地中海と花市場を見下ろすアパルトマンに住みました。わたしが何十軒もならぶ花市クール・サレヤを訪ねたのは1979.12.25午後で、2月の祭まえのミモザはすこし寂しげでした。アラゴンはそこで<エルザの瞳>1942に代表される「エルザ讃歌」を書きはじめます。
それはエルザへの愛であり、フランスの悲劇に捧げる祖国愛をうたって国民を鼓舞するものでした。反戦詩、抵抗詩として、エリュアール<自由>1942、プレヴェール<バルバラ>1944と並ぶものでしょう。<バルバラ>の舞台はアラゴンがダンケルクの難局を逃れて上陸したブレストでした。フランスではこの時代ほど、各地に詩のグループが生まれ、詩人が輩出して詩が多く書かれ、読まれ、愛されたことはないといわれます。詩の形式なら検閲の眼をくぐり抜けられたのです。
エルザの瞳 ルイ・アラゴン詩 薩摩 忠 訳(1節・10節)
おまえの瞳はなんて深いのだ 飲もうとして身を傾けると/ぼくには見える すべての太陽が姿
を浮かべ/望みを失ったすべての人が 身を投げようとしているのが/おまえの瞳はなんて深い
のだ/その深さのなかに ぼくの記憶は落ちこんでゆく
美しい夕暮れ 宇宙は暗礁に乗りあげて砕け/遭難した人たちは その暗礁に火を放った/ぼく
ぼくには見えるのだ 海の上に輝くものが/エルザの瞳 エルザの瞳 エルザの瞳が
隠喩が多くて難解な詩ですが、曲と歌唱のすばらしさに魅了されてしまいます。(2017.5.18) 後藤光夫©