ヌイイ・シュル・セーヌ、ジャック・プレヴェールは1900.2.4パリ西部近郊のこの町に生まれました。未完の自叙伝『幼い頃』には1906年からの記憶が綴られています。近くのサン・ピエール通りには3歳年上のアラゴン少年が住んでいたそうです。南仏に越して戻ったあとパリ、リュクサンブール公園の北に沿うヴォジラール通りに住んでからと、その後も貧民を励ます父の救貧院勤務につきあったり、ヴァカンスに行けないかわりにパリの街じゅうを歩きまわっておりました。
リュクサンブール公園、この界隈ではギュイヌメール通りにも、父親になったころにも住んでいます。わたしが好きな公園のなかで春夏秋冬いちばん訪ねたところです。彼は幼友だちとヨット遊びや人形芝居に興じていたのでしょう。読書と家族そろっての映画も楽しみだったようです。
シャトー街54番地、1920年代、画家イヴ・タンギー(1900-55)、映画制作者・俳優マルセル・デュアメル(1900-77)、プレヴェールと弟ピエール(映画監督)も加わったシュルレアリスムの根城のひとつです。このあたりはモンパルナス駅の拡張工事など再開発により往時の姿はなく、いまは円形のカタロニア広場があります。彼らが共同生活した番地はたどりようもません。
サン・ジェルマン・デ・プレ、1930年代後半から40~50年代プレヴェールらのたまり場はここに移り、彼は脚本執筆、映画、シャンソン作詩の世界へと進みます。サン・シュルピス教区で育ち、サン・ジェルマン大通りにも住み、仲間との活動の場は気付アドレスのカフェ・ド・フロールとドゥマゴです。ここで彼は若いとりまきには映画と詩の神、教祖、師匠とあがめられていました。
ランス市、1944年プレヴェールの詩を高等中学生が雑誌から集めて詩撰集200部を出版したところです。彼はこんな「うれしい贈りものはないよ」と語ったのを写真家ブラッサイが記しております。この町にはシャンソンから派生した趣味で、ランス大聖堂と微笑みの天使、サンレミ聖堂、フジタ礼拝堂を見に訪れました。彼の初詩集『パロール』はプロの編集者が関わり1946年に発売されます。あらゆる年齢層の国民・文芸関係者たちの反響、売れ行きのすさまじさは語り草となりました。詩集に<枯葉>が載っていないのは、このシャンソン誕生の事情からして当然でしょう。
モンスーリ、パリでいちばん好きな公園です。自然が豊かで花もみごと、子どもたちの遊ぶ光景はしばらく見ていても飽きることがありません。市の南郊にあり遠いので、2度しか訪ねてないのが残念。公園の東側に沿って南北にはしるガザン通り20にレストラン・モンスーリ亭があり、マルセル・カルネやプレヴェールは足しげく通ったといいます。
庭 ジャック・プレヴェール 大岡 信 訳
何千年かかったって/とうていだめ/言いつくせるものじゃない/あの永遠のほんの一瞬/あのきみがぼくを抱いた/あのぼくがきみを抱いた/冬の光が射していたあの朝/パリのモンスリ公園で/パリで/地上で/遊星の地球の上で。
シテ・ヴェロン、プレヴェール家や自身、自分の家族ができてからも、パリをベースに南仏サン・ポールなど住まいを転々としました。そして1955年ムーラン・ルージュの裏手で緑の庭つきのこの集合住宅に落ち着きます。ボリス・ヴィアンが1953年に越してきた隣でした。この袋小路はちょっと覗いたことがあります。2010年代はじめにTVでは、孫娘(1974-)の案内で彼の書斎や屋上庭園を見せてくれました。別のアンリ・サルヴァドールの番組では、隣同志で仲良しのボリス・ヴィアンの部屋も見られて興味深いものでした。近くにブランシュ広場があり、中央遊歩道の木々は秋になって彼が名づけた「小さな葉っぱちゃん」も風に舞いながら散り落ちるのでしょう。
オモンヴィル・ラ・プティット、1971.8彼がここに家を購入しました。1977.4.11に永眠し、ここに眠っております。いまはGoogleなどが記念館の家を見せてくれるし、彼の墓碑も拝みました。J.ドゥミ、M.ルグランの『マルセイユ』よりは近いけど『シェルブール』がこんなに遠いところとは。墓地のことを知る、接点がなくもない筋に手紙で尋ねてもナシのつぶて、1978年ガリマール社の受付も知らないとのこと。あのとき知っても行ったかどうかはわかりません。(2017.3.18) 後藤光夫©