わたしがシャンソンを好きになったのは、ラジオで訳詞によるシャンソンを聴いて魅かれたのがきっかけでした。それを歌っていたのは芦野宏という歌手です。彼の歌はラジオだけでなくTVでも視聴しました。ラジオでは評論家の蘆原英了がフランス人歌手の歌を聴かせる番組を知り、そのなかには訳詞シャンソンのもと歌もたくさんあって、それらも楽しむようになります。
シャンソンのムード、雰囲気、情趣を伝えるには、原語のままがいいものもあるからでしょう。芦野宏は仏文学者の東大・辰野隆、京大・伊吹武彦や日仏学院長ジャン・ルキエから賛辞を寄せられたほどのフランス語に、訳詩の朗唱を添えて歌うこともあります。それはそれで味わい、わたしは原点の訳詞歌唱でもって多くを楽しませてもらいました。訳詞は薩摩忠、なかにし礼、ほかによります。芦野はSP盤数枚のあと、1957年にポピュラー歌手としては初のLPを出しました。
芦野宏の略歴は、既存のネットをみれば概略はわかります。そのなかで詳しいのはNHK紅白出場歴(1955~64)ですが、10回「連続」の記録はシャンソン歌手でただ一人です。ネットではふれていないプロフィールを以下に記します(資料:プログラム、紙誌、書籍、ほか)。
「1960年代後半頃までは日劇の舞台に立つことが、人気芸能人の登竜門とか一流芸能人の証し」といわれた日劇レヴューへの初出演は『夏のおどり』1954.7.7~8.3でした。日劇とはいまの有楽町マリオン内の映画館ではなく、同じ敷地内にあった日本劇場、通称「日劇」(1933~81)という収容人員4千もの大劇場のことです。レヴューも戦後はシャンソン・ショーがふえてきて、芦野宏はこの『夏のおどり』では彼のテーマソングともいうべき<ラ・メール>と蘆原英了推薦のレオ・フェレ曲<パリのフラメンコ>で鮮烈な日劇デビューを飾りました。57年までに『シャンソン・ダムール』『街に花は咲く』『秋のおどり』『巴里の屋根の下』『巴里の何処かで』など9回出演します。
第1回リサイタルは1954.11.1(第一生命ホール)、お歴々のファンおすすめによるものでした。日本最初のシャンソン・リサイタル(1933パリ流行歌の夕)を催した佐藤美子、1953来日ダミアの前座をつとめた高木東六、ラテン・タンゴで師事した高橋忠雄、画家の東郷青児、同じく猪熊弦一郎らの諸氏です。リサイタルはその後、1955年内に主なものとして東京、神戸、姫路があり、1956年には、当時としては新記録の五日間連続リサイタル(4.30~5.4、ヤマハホール)を開きました。やがて1週間、1カ月前後のロング・リサイタルとなっていきます。
労音とは「クラシック音楽を低料金で鑑賞する」勤労者音楽協議会の略称で、大阪労音1949が最初の団体です。53年からポピュラー例会もはじめ、芦野宏は1956.3の4日間シャンソン・フェスティバルによばれました(共演:中原美紗緒)。つづいて1957.3.9~3.17、1957.10.23,24、1959.6.30~7.2,3,6~23と長期公演もはじまります。なかでも7月はいわば巴里祭です。労音は各都市に続々と結成され、リサイタルは津々浦々へとひろがります。1953年発足の東京労音では、ポピュラーの初回は58年、特別例会の芦野宏リサイタルでした。実質的には第1回のシャンソン例会です。その後、大阪と同じように1カ月くらいのロング・リサイタルが何度かありました。
芦野宏の巴里祭(パリ祭)はワンマンショーではじまります。1956.7.14付の新聞見出しに「芦野天下のパリ祭」と記された『巴里祭シャンソンの夕』は日比谷野外音楽堂(3千席)を超満員にしました。相原音楽事務所主催のワンマン巴里祭はときに新人歌手の助演もいれて1963.7.5(横浜)までつづきますが、その間に芦野宏が出演した『巴里祭シャンソン・フェスティバル』1957.7.15が開かれました。読売1957.7.3が見出し「森繁、越路のシャンソン」と予告した「東京で第1回の巴里祭」([副題]戦後歌謡曲史78)で、初めての大規模な巴里祭ガラ・コンサートでした。構成:野上彰、出演は森繁久彌、越路吹雪ほか当時、歌手・俳優として第一線の高英男、深緑夏代、福本泰子、高島忠夫、宮城まり子、草笛光子など12人+クール・アン・クール8人の総勢20人です。
やがて1961.7.13『巴里祭の夕べ』から石井事務所主催がはじまり、芦野宏は62.7.14『巴里祭』から参加して2011年まで半世紀も、出演しました。わたしはこの年、芦野最後の出演となった東京会場7.3で25年ぶりに鑑賞して、86歳とは思えぬ迫力にみちた魂の熱唱に感激したのでした。
芦野宏がポピュラーの世界にデビューしたのはNHKラジオでした(この日TV放送開始、受信契約866)。ラテン、タンゴのあとシャンソン歌手として、この局以外に51年から開局していた民放ラジオ各社からもゲスト、レギュラーにとひっぱりダコ。ながくレギュラーをつとめたのは、56.4.2に始まった『シャンソン・アワー』(ニッポン→文化)の57.1.7からで60.10.26終了までつづけました。TVでは1955年から芦野宏、淡谷のり子、宇井あきら、高英男やソプラノ歌手も出演した『シャンソン・アルバム』が3年間つづき、この58年には受信契約198万です。
日劇とその元祖・宝塚、来日歌手も含めたリサイタル、フェスティバル、巴里(パリ)祭、フランス映画、シャンソン喫茶、ラジオ・TV、教室・学校、出版物、そうした文化現象を、マスコミが「静かなるシャンソン・ブーム」とよんだのは1956年前後からでした。当時の新聞で放送番組欄を眺めますと、シャンソン関連の多さ・華やかさには目をみはります。
NHKTVの新番組『くらしの窓』(月~金、9時から30分のち40分)が1962.4.21にはじまりました(~66.4.1)。主婦を対象に、楽しみながら家庭生活に役立つ知識を提供するスタジオ番組です。アナウンサーでない方の司会は初めてとかで、メインの芦野宏が月水金を担当しました。服装・美容・エチケット、さらに料理・裁縫・園芸・芸能人インタビューなどのコーナーで構成され、番組のはじめと終わりに芦野が歌います。受信契約は1962年1338万、66年1925万になりました。
「『くらしの窓』を分析せよ
新しいワイドショーを企画するNET(現TV朝日)のスタッフは、NHKテレビの『くらしの窓』の分析、研究からはじめた。どんな視聴者層が、何に関心をもって番組を見ているか。… シャンソン歌手として女性層に人気のあった芦野宏を司会者にした生活情報番組といったらよかろう。司会者は歌もサービスするという新形式のテレビショーだった。」白井隆二『テレビ創世記』1983
シャンソン(歌手)の種類には、参考書によれば文学的、現実的、幻想的、魅惑的、などがあります。歌の種類はそのとおりとして、歌手には何々的1種類だけでなく何でも歌えて得意なひと、1種類だけが得意で歌うひと、その中間的で2ないし3種類も歌いこなす、などさまざまな歌手がいるのではないでしょうか。イヴ・モンタンはもちろん、エディット・ピアフでさえ、ダミアでも何々的歌手とはきめつけられないような幅のひろさ、ふところの深さがあるように思います。
『くらしの窓』にはどんな歌がふさわしいのでしょうか。挙げた4種類のなかでは、幻想的と魅惑的な、いわばホームソングです。いいかえれば、ファンタスティックないしコミックなものと魅惑のシャンソンとよばれるもの、それに文学的なシャンソンを加えてもいいでしょう。これぞ芦野宏がこれまで歌ってきた、お茶の間でも楽しめるシャンソンなのです。オープニングに芦野の「明るい」テーマソングが流れ、シャンソンのほか親しまれてきた歌曲・童謡も歌いました。
1964年TV朝日(当時NET)は新番組『木島則夫モーニングショー』をはじめ、小川宏ショーほか他社がつぎつぎと追随しました。『くらしの窓』はそうしたワイドショーの原型といわれます。21世紀、あさイチ、すっきり、バード、白熱ライブ、とくダネの元祖とはいえないでしょうか。
シャンソン・ファンになったわたしは、来日歌手としてはシャルル・トレネ1969からはじまり1992年のリーヌ・ルノーまで22人ほどに駆けつけ、パリへはモンタンほかのオランピアで数回とインターコンチネンタルHでの芦野宏ディナーショーへ出かけました。国内では芦野宏リサイタル、ディナーショー、芦の会サロンにほぼ毎回とその後援会ツアーで静岡・甲府・札幌などへ遠征。それらはデビュー50周年後までつづき、いまはたまにシャンソン館のライヴとサロンです。
転職後の勤め先のすぐ近くに1972.11、葦の画廊(芦野宏事務所)が店を構えました。レコード会社も遠からず録音に立ち会わせてもらったり、昼休みに店番をしたりで現役の後半は楽しいものでした。そんなご縁もあり、自叙伝『幸福を売る男』の資料集めに協力しました。既述のプロフィールのネタであり、より詳しく知りたい方はシャンソン館のショップでどうぞ。
連載のコラムはシャンソン・ファンとしての備忘録であり、なにか参考にでもなれば幸いです。予定の目次はいまのところ、さくらんぼの実る頃(1)~(11)、歌めぐり旅、夢のあとに、など。
前口上が長くなりました。芦野宏の誕生日に始められることをうれしく思います。
シャンソン愛好者・日本シャンソン館友の会会員 後藤光夫©