フランスの歌、シャンソンの歴史は中世にさかのぼりますが、ここでいうシャンソンは近代ベル・エポック(1889~1914)以後に作られたシャンソン・ポピュレール(以下シャンソン)です。それが輸入されて以来、早くから日本の文化として根づきはじめました。いまは歌の祖国でよりもこの輸入国で愛され歌われているかもしれません。1914(大3)年に関西の中都市・宝塚市に創設された宝塚少女歌劇団の宝塚大劇場(4000席)における公演において1927(昭2)年9月シャンソン<モン・パリ>をレヴュー『モン・パリ』に採り入れたのがはじまりでした。その後、宝塚をはじめ劇場やメディアによって日本の多くの層に親しまれつづけて30年たったころの1957(昭32)年に、前後数年に及んだマスコミのいう「静かなるシャンソン・ブーム」がピークを迎えます。「静かなる」とは先行したジャズやラテン、タンゴに比したシャンソンの音楽性によるのかもしれません。この文化現象を推進したのは、①宝塚、②レコード、③ラジオ、④映画、⑤リサイタル(コンサート)、⑥日劇、⑦来日歌手、⑧テレビ、⑨パリ祭、⑩シャンソン喫茶(シャンソニエ)、⑪学校・教室・講座などです。
宝塚レヴュー『モン・パリ』は翌月と翌年でつごう4カ月のロングランを記録し、次の『パリゼット』1930.8には<リラの花咲く頃><ラモーナ>などが採用されます。リラの花は<すみれの花咲く頃>と歌いかえられ、宝塚のシンボルソング、永遠のテーマソングになりました。レヴュー『花詩集』1933では<花売り娘>が歌われます。大評判をよんだ『モン・パリ』『パリゼット』などは1928年から東京の歌舞伎座ほかでも公演されました。1940年、宝塚少女歌劇団は宝塚歌劇団と改称。戦況により1944年には公演を中止。46年に再開、47年に『モン・パリ』20周年再演。レヴュー『ブギウギ・パリ』1949で<パリの屋根の下><パリ祭>が合唱され、『シャンソン・ド・パリ』52では<枯葉><ラ・メール><ラ・セーヌ><パリのセレナーデ>など本邦初演です。レヴューは以後『ボンジュール・パリ』『ブーケ・ド・パリ』『シャンソン・ダムール』と続きました。
宝塚レヴューの<モン・パリ>を奈良美也子が吹き込んだレコード(SP盤1929)は10万枚も売れたといわれます。天津乙女<すみれの花咲く頃>30はそれ以上かも。輸入盤ではリュシエンヌ・ボワイエ<聞かせてよ愛の言葉を>32、この<愛の言葉を>は日本ではじめて「シャンソン」ということばで紹介されたシャンソンといわれます。<パリ祭>の録音は西百合江1933、淡谷のり子1935。淡谷はほかに<二人の恋人>など数曲1933~36、そのなかの<人の気も知らないで>は小林千代子1938も。1938(昭13)年・40年には、輸入された全集《シャンソン・ド・パリ》第1集・第2集各6枚組が発売されます。それぞれリュシエンヌ・ボワイエ、ティノ・ロッシ、ダミア、リス・ゴーティ、ジャン・ソルビエ、ミスタンゲットほかと、リナ・ケティ、イヴォンヌ・ジョルジュ、トレネ、マリー・デュバ、ほか計24曲、1・2集各1万2000組で計2万4000組が売り切れました。ただ、戦時下で資材不足と敵性音楽という事情もあって第3、第4集は発売されませんでした。
ラジオ[NHK1925(大14)開局]からは邦人歌手や輸入レコードによるシャンソンが放送されて、津々浦々にひろく庶民にもインテリにも愛聴されました。1935(昭10)年、フランス国立放送がNHKとの日仏交歓放送で日本向けにL.ボワイエ<聞かせてよ愛の言葉を>を放送しましたが、あまりよくは聞こえなかったらしい。1951(昭26)年から民間放送各社が順次開局します。NHK:シャンソン評論の草分け蘆原英了ほか解説『リズムアワー』52と芦野宏らの出演でシャンソンほかの『虹のしらべ』52、『ダミアの夕べ』解説:蘆原英了53。文化放送:常連・芦野宏ほか『歌の散歩道』53、 TBS:『わたしはダミア』語り杉村春子53、芦野ほか『花椿アワー』54。ニッポン:蘆原英了解説『パリの街角』55、レギュラー芦野宏とゲストで『シャンソン・アワー』56→57.11文化など。
フランス映画でシャンソンを好きになった人たちも多いようです。映像・物語とともに主題歌・挿入歌が日本人の琴線に触れたのでしょう。田谷力三は西條八十の作詩で映画『パリの屋根の下』1930の主題歌をうたい、レコードは31年6月、映画の本邦公開[浅草1932]前に出てヒットしました。映画ではA.プレジャン。映画『パリ祭』32[浅草ほか1933]の主題歌はコーラスと演奏、レコードではリス・ゴーティがよく聴かれました。『パリのスキャンダル』(陰唄)48と『水色の夜会服』55でジャクリーヌ・フランソワが<パリのお嬢さん>、『パリの空の下セーヌは流れる』51で<パリの心>クラヴォー(陰唄)、ジャン・ブルトニエールが挿入歌をうたい、『フレンチ・カンカン』54の<モンマルトルの丘>はコラ・ヴォケール(陰唄)、それにパタシュ、クラヴォー、ピアフらが往年の歌手役で十数秒ずつうたい、『パリ野郎』55ソヴァージュ<パリ・カナイユ>、『遥かなる国から来た男』56ベコー、『恋多き女』56マルジャンヌ<パリにご用心>、グレコ<ミアルカ>など。
邦人のリサイタル第1号は、詩人・深尾須磨子にすすめられて歌いはじめた日仏ハーフのオペラ歌手・佐藤美子の『パリ流行歌の夕』1933(昭8日本青年館1360席)です。つづく淡谷のり子は10周年記念独唱会38(日比谷公会堂2085席)でタンゴ・シャンソンほか、石井好子1947(毎日ホール200席)がシャンソン・ジャズほか、高英男は49(有楽座746席)と初連続3日間5回52でタンゴ・シャンソンほか、越路吹雪53・54(日比谷)がシャンソン・ラテンほか。宇井あきら54(読売ホール)、芦野宏独唱会54(第一生命ホール600席)、芦野宏55(山葉ホール524席)、芦野宏連続5日間「シャンソン・リサイタル」56(山葉)、4回目の越路吹雪56(山葉)、深緑夏代56(山葉)、中原美紗緒56連続3日間「シャンソンの夕べ」(山葉)。また1949年に宝塚の須藤五郎らが創設した音楽鑑賞団体の大阪労音[勤労者音楽協議会]では1953年からポピュラー例会をはじめ高英男1954,55、芦野宏&中原美紗緒56(産経)の公演。
娯楽の殿堂日劇〔2063,3000~4000席、東京・有楽町1933(昭8)年開館〕ではスタッフが宝塚からの岸田辰弥1936、白井鉄造43と東京の益田義信36、高橋忠雄38ほかにより、多ジャンルの音楽レヴューを催し、「宝塚」の引越し公演(1946,48)も催しました。シャンソン・レヴューは1951『夢のパリ祭』、52『歌う不夜城』・『パリの唄』、53『アデュウ・トウキョー』・『夏の踊り』、54『歌う不夜城』・『夏の踊り』・『シャンソン・ダムール』、55『街に花は咲く』・『大いなる歌声』・『秋の踊り』、56『春のプレリュード』・『パリの屋根の下』。それぞれに、淡谷のり子、橘薫[かをる]、越路吹雪、高英男、芦野宏、ビショップ節子、中原美紗緒、石井好子らが出演します。
来日歌手第1号は佐藤美子の友人ダミアが1953(昭28)年、東京・名古屋・京都・大阪・福岡・仙台6都市で公演しラジオ・テレビに出演しました。次のジョセフィン・ベーカーは54年チャリティ(帝劇1897席)、3番手はイヴェット・ジロー55年(山葉のみ)。NHKテレビは開局した日1953.2.1に『ダミアの夕べ』をラジオと同時放送しますが、テレビの受信契約数は866でした。同年、民放の日本テレビも開局。NHKTV契約数が16万5666に急増していた1955年、芦野宏らシャンソン歌手と砂原美智子ほかほとんど芸大出のクラシック声楽家による『シャンソン・アルバム』がはじまり、数年後に『歌の花束』に引き継がれました。この55年4月TBSテレビが開局しています。
新聞1956.7.14は見出し「芦野天下のパリ祭」でブーム・ピーク前夜の芦野宏の活躍を報じました。ダミアと助奏の原孝太郎から折り紙つきの芦野宏は、10月に初渡仏を控えた7月14日、巴里祭「シャンソンの夕」(日比谷野音3114席)と翌15日「和製シャンソン」中心のリサイタル(山葉)を催し、どちらも満席の盛況。そのころ淡谷のり子、越路吹雪(東宝専属)は日劇その他で活躍しています。芦野宏と人気を二分する男性シャンソン歌手第1号・高英男と芸大先輩の石井好子は早くに渡仏して劇場や放送局に出演していた「国際派」の先駆者で、そのため国内は留守がちです。シャンソン・ブームを牽引して立役者になったのは、4・5月に初の5日間連続リサイタル、7月ワンマン巴里祭、8月以降は続演で大阪・静岡・大津・松山ほか地方公演もして人気絶頂の芦野宏でした。
初のシャンソン喫茶・銀巴里(110席)は、1953年に来日したダミアのヴァイオリン助奏を務めたバンドリーダー原孝太郎が54(昭29)年パリのカフェ・コンセール視察後に銀座でキャバレから替えて開店されました。そのあと都内には、新宿にラ・セーヌ(550席)、ほかは100席前後でジロー、ベコー、シャン(100席)、十字路(100席)、金馬車、フレール、ぼんそわーる、えくら、ロア、ネスパ、ルフランほか、レコード鑑賞が主の店も含め50年代後半には30軒ほど。三島由紀夫など文人墨客にも愛された銀巴里などの出演者は、丸山明宏、沢庸子、仲マサコ、戸川昌子、小海智子、宇井あきら、高毛礼誠、田中朗、山本四郎、真木みのる、木村正昭、くどうべん、古賀力たちです。
シャンソン教室の先駆としては、東京にシャンソン歌手の草分け佐藤美子のグループ「クール・アン・クール」シャンソン塾1953と菅美沙緒のシャンソン教室55がありました。(2020.9.18) 後藤光夫©