これまでシャンソン公演は、劇場・ホールほかパリの会場における出演歌手たちの名前を取りあげてきました。シャンソン歌手はフランス国内の都市だけでなく海外からも招聘されて歌います。
★アリスティード・ブリュアン(1851~1925) 74歳 <サン・ヴァンサン通り>ブリュアン詞曲
ブリュアンが初期にパリで歌っていたのは、ロドルフ・サリスとエミール・グドーが1881年18区ではじめた芸術家の会員制キャバレ「シャ・ノワール黒猫」と彼らが引っ越したあとを自分が改名して1885年に開業した「ミルリトン」においてです。彼は「95年には店を譲渡し国内およびアルジェリアなど北アフリカを含む広範囲な巡業にでかけた」のですが、詳細はわかりません。「シャ・ノワール」のポスターといえば、アレクサンドル・スタンランが描いた有名なのがいくつかあり、なかにProchainement Tournée CHAT NOIR avec Rodolphe Salis「近日中ロドルフ・サリスとシャ・ノワールの巡回興行」1896年というのがあって、これは移転した9区ラヴァル通り(現ヴィクトル・マセ通り)時代のサリスの影絵劇場の巡業ですから、ブリュアンは参加しておりません。
★イヴェット・ギルベール(1867~1944) 77歳 <シャ・ノワールの思い出> 作詞作曲 ?
ディヴァン・ジャポネで人気がでる1891年前後のギルベールは、1889年リヨンや1892年リエージュでデビューしパリでもあちこちから声がかかるようになりました。海外の初は1894年ニューヨーク公演、そこでは朗唱法dictionの学校を創設、厳しい先生でした。1905年ロンドンの二つの劇場に、13年に南仏ニース、以降は諸外国からの強い要請でドイツはじめベルギー、スイス、オランダ、ポーランド、デンマーク、チェコスロヴァキア、ロシア、ルーマニア、オーストリア、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、エジプト、アルジェリア、イングランド、スコットランド、アイルランド、アメリカなどを巡業しました。録音も1918年にアメリカ、28年ロンドン。精神分析学者フロイトは彼女のファンで文通し、ウィーン公演は家族で楽しんでいたようです。亡命先ロンドンの書棚には、ギルベールのサインいり写真が飾ってありました。
★ミスタンゲット(1873~1956) 83歳 <バレンシア>ボワイエほか作詞・パディーリャ作曲
愛称ミスはレヴューの女王、ミュージックホールの女王として1926年のムーラン・ルージュのほか主要な劇場に君臨しました。国外へは1914年の第1次大戦勃発によりイタリアでしばらく歌い、15年にパリへ戻ります。最愛のモモことシュヴァリエが彼女のもとを離れた傷心を癒すべく、1920年ニューヨークへ渡りました。23年にも渡米しますが、トラブルのため仕事には至りませんでした。長い海外公演(詳細不明)があって、1939年に南米巡業の途次には第2次大戦が勃発しました。戦後49年ロンドン、モロッコで歌い、50年にアメリカ、51年ドイツへ巡業しています。
★モーリス・シュヴァリエ(1888~1972) 84歳 <喜びあり>トレネ作詞作曲
パリで歌手として認められかけた1901年にル・アーヴル、アミアン、トゥールなど地方都市でも歌いに出かけます。04年にはやっと野次られもせず拍手されるような歌手になって、マルセイユの舞台も踏めました。1919年にロンドンへ渡りレヴューに出演、帰国してボルドー、マルセイユ、リヨン、ニースでも公演します。1928年からはアメリカのハリウッド映画時代がはじまり34年に第2次大戦で中断しました。戦中に親独政権の要請により地方都市ヴィシーで捕虜を前に歌ったこともあります。戦後55年のアメリカ公演は政治問題のあおりでうまくいかず、58年にハリウッド映画への奇跡的といわれた復活をとげました。翌59年から64年までと戦前を加えれば20本くらいの映画に主演したようです。69年にはアパルトヘイトで非難される南アフリカでも歌いました。
★ジャン・サブロン(1906~1994) 88歳 <夢を破らないで>ジャン・ジャル作詞作曲
サブロンは音楽一家に育ち演劇、レヴュー、オペレッタに出演して1930年24歳からはシャンソンに専念。「フランスのビング・クロスビー」といわれた「クルーナー唱法」の彼がパリ・ボビノ公演ではじめてマイクを使ったのは1936年。シャンソンも生の声を聴かせるのが当たり前の時代、マイク使用は当初なじまれず不評でした。のちにそれが定着したのですから、先見の明でしょう。
以前1933年から南フランス巡業後、世界をまたにかける旅がはじまります。イギリス・ロンドン公演、36年アメリカ・ニューヨーク、ハリウッドでラジオ出演、カナダで公演、39年アメリカのレヴューに出演、そのあと第2次大戦中はブラジル、アルゼンチン、ニューヨーク、サンフランシスコとまわり、45年に長い南北米滞在が終わります。戦後は48年ニューヨークからロンドンへ渡って公演と録音です。50年には再度の南北米、オーストラリア、ニュージーランドと演奏旅行はつづきました。66年に石井事務所主催パリ祭第3部(ジロー共演)とリサイタル。68年にも来日。
★シャルル・トレネ(1913~2001) 87歳 <詩人の魂><音楽一家>トレネ作詞作曲
音楽家族に生まれたトレネは若いころジャズが好きになり作詞作曲もしました。ソロ・デビューはマルセイユが先で1937年、パリ・デビューは1938年。39年からの第2次大戦中はフランス全土にわたり慰問ショーに専念させられました。戦後46年から53年までにニューヨーク、ハリウッド、リオデジャネイロ、そしてカナダをまわります。10年近くも北南米への訪問を重ねました。59年には初来日公演です。わたしが楽屋を訪ねてサインをいただいたのは2度目の来日69年でした。翌70年に大阪万博。72年インド、オーストラリア、アフリカ、カナダほか北米各地で公演。75年に突然、引退を発表。でも77年、中仏ブールジュのシャンソン祭典に参加。海外でのサヨナラ公演も79年までと、カナダだけ83年。89年には海外公演を再開し、ニューヨーク、ロンドン、モントリオール、東京。パリでも世紀末にかけて大きな公演をいくつか。異名Fou chantant面目躍如 ?
★エディット・ピアフ(1915~1963) 47歳 <愛の讃歌>ピアフ作詞・モノー作曲
パリ・デビューではつまずいて1937年のABC初出演で大成功を収めるや、39年にはベルギー、スイスでも公演しました。モンタンを同行し44年にリヨン、トゥーロン、マルセイユ、トゥールーズで、45年にも地方巡業します。47年コーラスグループ「シャンソンの友」を伴った初のアメリカ公演のとき、恋の遍歴ちゅう最愛のボクサーと恋に落ち、彼の事故死により2年で悲恋に終わりました。48、49年にもニューヨークで歌います。52、55、57、59年とアメリカ公演を重ね、これで9度目となりました。そのうち55年から56年にかけては14カ月も滞米します。57年には11カ月にわたり南北アメリカの公演旅行です。1960年に国内地方巡業、62年ベルギーのブリュッセル、リエージュなどで公演します。63年の北仏リール市の公演が最後のステージとなりました。
★イヴ・モンタン(1921~1991) 70歳 <ア・パリ>ルマルク作詞作曲
地方では1944年のパリ・デビュー前にマルセイユで1938年と39年に歌っております。44年、面倒みのいいピアフに同行してリヨン、トゥーロン、マルセイユ、トゥールーズで歌いました。翌45年もピアフと地方巡業。この45年には、エトワールでピアフの前座に出たあと8度の記録的なリサイタルが連年ないし数年間隔ではじまりました。その合間に1949年エジプト、イギリス、スイスなど海外を巡業し、1956年には世界が注目したソ連モスクワほかの公演、次いで57年ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、東ドイツです。59年は地方巡業と、渡米してニューヨーク、西海岸各地のリサイタル。日本初公演は、最初の予定がモンローとの映画『恋をしましょう』撮影延期でキャンセルされ、一部のファンからは「なめるな、モンタン」といわれて、2年後1962年のことでした。63年フランス国内と国外で公演。1981~82年パリでの13年ぶりリサイタルのべ4カ月、82年は地方と南北米日のツアーがあり、わたしが81年パリ3度につづいて来日公演2度も楽しんだのは、79年南仏でのかたい握手のせいでしょう。
★ジュリエット・グレコ(1927~ ) <街角>トレネ作詞作曲、グレコに提供
バレリーナはあきらめ女優をめざしていたグレコは第2次大戦後に「実存主義の女神」とあがめられ、あれよあれよという間に歌手となりました。このデビュー物語はパリ市内でのこと。地方での活躍は1951年フランス北西部の海辺ドーヴィルのシャンソン・コンクール入賞から。この年か52年ブラジルへ巡業しており、ニューヨークでは豪華な舞踏会のショーで大成功をおさめ、56年にも招待され、映画にも出演しました。日本のファンは1955年、58年、61年2月の予定が「すっぽかされた」あと、10月に初来日が実現して歓迎したのでした。1966年ベルリンの巨大ホールで聴衆を魅了し、ウィーン音楽祭2009にも出演したようです。来日は1961年以来2009年が20度目。23度目の公演2016年6月(89歳)は前年に体調不良で引退し、中止となりました。(2020.8.18) 後藤光夫©