フランスでは1880.7.7の法律により<ラ・マルセイエーズ>が国歌となり、7.14がフランス革命記念の国祭日になります。祭日名は「七月十四日」のフランス語「カトールズ・ジュイエ[祭]」とか「革命記念日[祭]」と称されるそうです。わが国の文献では、「カトールズ・ジュイエ」とか「共和祭」とか「共和国祭」、「七月十四日祭」などと称されました。それが1930年前後に「巴里祭」または「パリ祭」に変わります。それは、次のような事情によると思われます。
フランス映画『Quatorze Juillet』1932が『巴里祭』という邦題で1933年に公開されました。以後、フランスの革命記念日はそうよばれ、いまは読みにくい「巴里祭」より書きやすい「パリ祭」のほうが多く見られます。邦題は映画を輸入した東和商事が付けました。通説では「川喜多かしこ副社長が『巴里祭』と訳され、それが映画の題名になった」というのが定着しております。ところが、映倫専門審査員の寄稿(朝日1956.7.13)に「これを『巴里祭』と命名したのは東和映画の青山敏美さん」とあり、またある映画評論家は「社長川喜多長政・かしこ夫妻や宣伝担当の筈見恒夫氏らが試写を見て…感激を噛みしめあううち、自然にふっと浮かんで決まった題名」と記しました。
「営利目的であり、魅力的な訳で成功」とか「商人たちが商魂の逞しさを発揮」とやゆする向きや「思わせぶりでスマートなタイトル」との自賛もあります。また「フランスの国民的行事を『巴里祭』というパリに限ったような訳名はおかしい、誤解をまねく」とか「革命は発端がバスチーユというパリを舞台にしたものだから、パリ祭とよんであんがい適切」など諸論がありました。フランスの漫画家ペイネ来日時の談話に「『パリ祭』とはたいへんうまい訳」(朝日1964.7.15)とありますが、本国では通用しないでしょう。なお当事者の一人かしこ夫人は、気持ちとしては「パリさい」でなく「パリまつり」だったらしい。この名訳ともいわれる訳語をかりて略史を記します。
「パリ祭」は革命発端の翌年1790からはじまりました。牢獄を壊した跡に「Ici on dance ここで人びとが踊る」という立札が立てられ、広場などで踊ったというのです。フランス革命記念日が1880年に国祭日になり、ベル・エポックのころには広場でも街頭でも<ラ・マルセイエーズ>にはじまり、人びとはワルツなどで踊り、閲兵式がありました。やがて祭りはこんな催し物で進行する日程が固まっていきます。前夜7.13に街頭・広場の飾りつけとダンス、当日7.14は午前にメインの軍事パレード(閲兵式)、夕方~深夜はダンス本番・花火、祭りは各地区が競い、舞踏会は市庁舎前、バスチーユ、サン・ルイ島、モンパルナス、ポンピドゥーセンターなどが規模も大きく華やかです。広場や街頭ではカフェや酒場が会場を設営します。三色旗・▽□の小旗・提灯・輪飾り・豆電灯などの飾りつけ、楽隊席の屋台の組み立てです。楽士はソロからバンドまでピアノ・ヴァイオリン・ギター・アコーデオン・トランペットなどアマチュアが多いようで、歌手も参加します。
ゴッホの絵に「パリの7月14日」1886、映画『炎の人ゴッホ』米カラー1956に「1890年パリ祭」と失意の画家が見られ、デュフィは「パリ祭」1906を描きました。花火は1900年代からポン・ヌフ、モンマルトル、トロカデロなどで打ち上げられます。1930年代からのシャンゼリゼの軍事パレードは、映画『かくも長き不在』モノクロ1961で60年代が見られ、70年代の省エネでバスチーユ~共和国広場へと2回ほど変えたほかは現状に。映画『巴里祭』1932の前夜と本祭、『北ホテル』1938のラストで見るように、舞踏会は下町・場末にこそ風情があります。1950年代のオペラ座などの無料公開はいつまで続いたのか、2010年代オペラ・バスチーユは広場に音だけのサービスでした。
映画『アンリエットの巴里祭』モノクロ1952には各地の舞踏会シーンが出てきますが、ラストに花火があがりサクレ・クールを背に二人が眺めていました。カラーで見られるのは、木村伊兵衛1955の寂しげな下町と映画『恋多き女』1956の賑やかな街の巴里祭です。1987年のTVでは、ロックで踊る若者たちがおおぜいおりました。1989年はミッテラン大統領でフランス革命200年記念。凱旋門からシャンゼリゼ大通りを軍事パレードし、コンコルド広場で音楽に合わせて行進ショーをくりひろげます。上空には三色の噴煙で編隊飛行。オランド大統領の2015年はパレードも飛行も控えめでしたが、エッフェル塔を包む花火は絢爛でたぶんパリ随一の絶景でしょう。(2020.3.18) 後藤光夫©