19区はパリの最北東部で、オスマンの都市改造で造成された広大なビュット・ショーモン公園があります。自然も生かし、石切場の跡には人工的な岩山や池をつくりました。山の頂上から市内を眺望したりエッフェル設計の吊り橋を渡ったり。家畜処理・市場だった区北部ラ・ヴィレットは、20世紀末に広大な公園地帯に変わります。科学産業館、巨大な球形の映画館と高等音楽院、音楽博物館、ボリス・ヴィアン・ホールをふくむ音楽都市など、2010.4アイスランド噴火の延泊で訪ねました。シニョレとモンタンのプロムナードも。ポップスの殿堂《ゼニット》1984,6300席では、J.アリディ1984,06,10、F.ギャル85、ルノー84,86,02,03、バルバラ86、ゲンスブール88、F.カブレル89、N.ムスクーリ89、Y.デュテイユ90、P.カース90,99,05、J.ジャンメール95、R.アントニ99、J.クレール02,06、E.マシアス03、M.サルドゥ07、S.ラマ13、J.イジュラン13、ザーズ14らも公演。運河の近くにはジョセフ・コスマ通り、ヴァンサン・スコット通り、ムルージ広場あり。
市の最東端で19区と20区の境界、ポルト[門]・デ・リラはブラッサンスも出演した映画1957とメトロの駅名であり、セルジュ・ゲンスブール公園があるのは<リラ駅の切符切り>の縁なのでしょう。聖なる怪物ゲンスブールはピグマリオンに擬せられ、<枯葉によせて>など初期の作品には好きなものがいくつかあります。画家志望が生活のためにピアノを弾き、ミシェル・アルノーの伴奏を務めました。アルノーは曲目が地味ながらやはり好きなひとり。フランスでは少ない大学出のシャンソン歌手で、おなじ法律・哲学ではレオ・フェレ、予科がフランソワーズ・アルディ、音楽院はナナ・ムスクーリ、グローリア・ラッソ、ジルベール・ベコー、シャルル・デュモンらです。
20区は1区から時計まわり2周半目の最終区です。北のベルヴィルから南へメニルモンタン、ペール・ラシェーズ墓地へとたどります。北端にフレエル広場があり、彼女出演の映画『望郷』1939では「類まれなる美貌」の写真を背に<モンマルトルの挽歌>を聴きながら歌い泣きくずれるのでした。現実派シャンソンを地でいったような人生遍歴で、いちじ親しかったひとは隣りのメニルモンタン生まれ、そこにモーリス・シュヴァリエ広場があります。エディット・ピアフ広場はシュヴァリエと同郷メニルモンタンの東はずれでした。出来たて1981.12の広場を訪ねたのは1982年、2012年には朝市の屋台が広場を隠すように出ており、うっかり通りすぎて引き返しました。ほど近い11区にはE.ピアフ博物館があり、12区内はジャック・プレヴェール通りと次の墓地です。
ペール・ラシェーズ墓地はパリ最大で、メニルモンタンの丘の中腹にナポレオン帝政時代1806年にできました。ラ・シェーズはルイ14世の聴罪司祭の名ですが、お墓は宗教に関わりなく立てられる「共同墓地」です。1978冬いらい2006、07、10、12の春夏に、好きな故人や碑を何度か訪ねました。地下鉄フィリップ・オーギュスト駅から近い正門から参りましょう。
アベラールとエロイーズの比翼塚、ショパン、ベランジェ、ベコー、モンタン&シニョレ、ジャック・プラント、アポリネール、ウジェーヌ・ポティエ、ギルベール、ピアフ、サルヴァドール、J.-B.クレマン、エリュアールたち、それに連盟兵の壁とパリ・コミューン記念碑。比翼塚は中世、悲劇の碩学と才媛、ポティエは<インターナショナル><牧場>などで知られるコミューン最大の詩人、プラントは好みを並べればグラン・ブルヴァール、あじさい娘、ドミノ、花祭り、パリの花束、雪の星などの作詞家。アンリ・サルヴァドールはなぜかピアフのお隣りさんでした。
朝早くにファンや支持者が訪れて、お墓をきよめお花を供えているのでしょうか。時により多寡はありますが、人気者は永遠のようです。墓地は朝8時からで、晴れた日は開門を待ってはいったものでした。公共施設やデパートなどは早くて9時半ですから早朝には伺えません。墓苑内の散歩は気持ちよく、公園のように設計された墓地というのもうなずけます。
ある作家がいうように「若いときパリに滞在すると、パリは生涯ついてまわる」のでしょうか。
芦野宏が歌っていたガブリエル・フォーレの<夢のあとに>のタイトルをかりて、パリをたどりました。シャルル・トレネ詞・薩摩忠訳<夢の国はどこに>あるのか、それは原題<夢の国は歌のなかに>のように自分が愛してきた歌の数かずのなかにあるのかもしれません。(2020.2.18) 後藤光夫©