夢のあとに(12)パリ18区 前半 ムーラン・ルージュ 黒猫

 モンマルトルの丘の西麓クリシー大通りから北に入るシテ・ヴェロンの共同住宅には、B.ヴィアンとJ.プレヴェールが住んでいました。隣りの《ムーラン・ルージュ》赤い風車(クリシー大通り82)現840席は革命百周年記念の第4回パリ万博(1889.5.6~10.31) 最終月10.6、中庭に張りぼての巨象を置いた6千人収容のダンス場として開場します。映画『フレンチ・カンカン』1954のようにプロの踊りを見せるのが主で、従たる歌にはY.ギルベールが1890雇われますが評判になりません。ミュージックホール1892、ダンスホールそのままで劇場1903に。ロートレックが通いつめ1889~92、依頼されたポスターは芸術の域、ピカソも「赤い風車で」「カンカン」1901を描いております。
  《ムーラン・ルージュ》では『オッフェンバック・レヴュー』1904、『レヴュー・ド・ムーラン』08のあとミスタンゲットがアパッシュ・ダンス大成功1909でレヴューの新時代を迎えてトップスターに躍り出ます。第1次大戦1914~で閉館中に全焼、再開したダンスホール21は不振。グランド・レヴューで愛称ミスの『レヴュー・ミスタンゲット』『サ・セ・パリ』26はミュージックホール史上最大のヒットになりました。『パリは回る』28などと、ほかのレヴュー小屋でも活躍し30年代まで「レヴューの女王」として君臨します。ダミアも活躍し、カンカン踊りも喝采をうけますが世界大恐慌1929後に映画館。大戦後、パリ解放1944.8.24まえ7月にモンタンはピアフの前座で二人が初出会い、戦後はA.コルディ51、トレネ52、リーヌ・ルノー54,57、アズナヴール54、J.フランソワ54も出演。1962年レヴューが復活しカンカンで賑わいを取り戻します(東京来演63)。1989年『パリの華ムーラン・ルージュ100年』を祝い、往年の出演者A.コルディ、M.マチュー、アズナヴール、トレネらが出演(NHKBS放映)。21世紀もレヴューは健在(東京再来演05,06)。
 クストゥー通り2《トロワ・ボーデ》三匹の種ロバ1947~60,245席は、才能発掘の名手ジャック・カネッティが開業。ルマルク1948、パタシュ51、サルヴァドール52、A.コルディ52、ブラッサンス52、グレコ53、ブレル53、ソヴァージュ53、J.コンスタンタン53、B.ヴィアン55、G.ベアール57、P.コロンボ58ら。カネッティがやめて60低俗化したのち、2009再開。クリシー大通り36《ディズール》十時1915,180席ではC.ルナール1998、C.デュモン2001、M.P.ベル01,04,05、N.クロワジル01,06、H.ヴィラール04など。マルチール通り75《ディヴァン・ジャポネ》和風長椅子1883~1904,200席ではY.ギルベールがムーラン・ルージュとのかけ持ち出演1891~93します。ロートレックに顔のない絵1892を描かれ、のちに「世紀末のディズーズ(語り部)」と称されました。劇場1900、さらに映画館、現在はディヴァン・デュ・モンド名でロックなど。通りの向かい側にアンドレ・ジル像があります。
 ロシュシュアール大通り120のシガールはカフコンス1887時代に若いジャン・ギャバンほか大物も出演、1928~80映画館、いまはカフェでジャズ・コンサートも。 ロシュシュアール大通り84には芸術キャバレ《ミルリトン》ヘボ詩句1885~95(旧シャ・ノワール1881~85)がありました。シャ・ノワールの店主ロドルフ・サリスが近くの9区に引っ越したあとを、けんか別れの歌手アリスティード・ブリュアンが買い取り経営したのです。彼はギルベールが尊敬しロートレックも共感する先輩で現実派シャンソンの創始者、ベル・エポック最大の作詞作曲者兼歌手です。場末のならず者や下層民の悲哀を歌って庶民にも、悪態をついたブルジョアにもうけました。ラパン・アジルの隣に住んで、フレデ親子を地上げから救い存続を助けたのでした。
  隣り9区に引越した《シャ・ノワール》黒猫1885~95,200席に同伴したひとりが歌手兼作曲家のポール・デルメ(1862-1904)。愛の星、花を贈る、小さな教会など、あまく優しく美しい歌はいまも愛されています。第1次大戦まえ万博1889・1900も開催された「ベル・エポック」、先輩ブリュアンの現実派とは対照的なジャンルです。モンマルトルはそうした近代シャンソン揺籃の地であり、また戦後も大通りの小劇場・カフェ、隣接9区の2大レヴュー小屋をふくめてシャンソンのメッカでした。旧黒猫の隣りエリゼ・モンマルトル(大通り72)はムーラン・ルージュの先駆のような舞踏場で劇場、音楽会場などに模様替えも。1983年G.ゲタリ、マリア・カンディドでオペレッタ『タヒチの恋』上演。パリ・コミューン時はJ.-B.クレマン所属の革命クラブでした。(2019.12.18)  後藤光夫©