9区のオペラ・ガルニエまえのキャプシーヌ大通りを東進して右手は、2区のオペラ・コミック座です。「甦るオッフェンバック」のころ『ビバ・オッフェンバック』1979.12.27を観て、舞台の裸婦にビックリ。東隣りはかつて証券取引所と新聞社街で、第1次世界大戦まえ1914.7.31、反戦の立場から記事を載せようとした社会党指導者ジャン・ジョーレス(1859-1914)がカフェで暗殺されました。のちに歌手ジャック・ブレル(1929-78)は、なぜ<ジョーレスは殺された>と歌います。
パリには市民は交通渋滞もなく、観光客にも人気の通路パサージュがあります。19世紀に盛んにつくられました。ガラス屋根のアーケードつき商店街で、泥はね・降雨が避けられる歩行者専用の快適な通り抜け道だったものです。最盛期は何区かに40近くも散在し、現存するのは20カ所ほど、それぞれに何業種かの店舗が軒を連ねます。この2区にあるのはパサージュ・パノラマで、むかしのパノラマ常設館(映画館の前身)2塔をつなぐ通路としてつくられました。いまは切手屋・洋服店・花屋・レストラン、サウナなどがあり、名刺屋とサロン・ド・テ(喫茶店)が人気とか。
アンタン通り21高級キャバレ《シェ・フィシェ》1919でY.ジョルジュ、R.ゴーティ、L.ボワイエが24年にデビュー。ポワソニエール大通り11にはかつて《ABCアベセ》劇場1934~64,1200席がありました。戦前は初代看板スターがR.ゴーティ1934、ミレイユ34。ティノ・ロッシは34年パリ・デビュー、戦後46カムバック、オペレッタ『ギターの季節』63が2年間。マリアンヌ・オスワルド35,36,38、ミスタンゲット1936、戦後49に76歳でレヴュー『パリは楽しむ』、51年に引退。アニエス・カプリ36、シュジー・ドレール37。E.ピアフは1937やっと晴れの舞台で本格的デビュー、42には新旧レパートリーで出演。オペレッタ『かわいいリリー』51に主演しました。
ソロ・デビュー前座のトレネは、1938.3.25喝采が鳴りやまず真打ちL.ゴーティの時間まで歌いつづけ一夜にしてスターダムにのしあがり、2週間後は看板スターで出演。リナ・ケティ38,39人気絶頂。マルジャンヌ39トップスター。いまや国際派のジャン・サブロンは1939パリに凱旋1カ月間連日の札止め、<辻馬車>をクルーナーとスウィングでリバイバルさせました。Y.ギルベールが激励に来場。マイク初使用(ボビノ1936)が観客に不評だったのがうそのよう。戦後も46帰仏して1カ月出演。アンドレ・クラヴォー戦時中42。占領下1944.2にイヴ・モンタンが22歳でパリ・デビュー3週間、47も。G.ゲタリ44、G.ユルメール44。戦後はマリー・デュバ44新曲15曲も大成功、45。ルイス・マリアーノ45レヴューの準主役。ルネ・ルバ47。シェ・パタシュで歌いなれたパタシュ50,52。リーヌ・ルノーは1950年22歳で大看板。アニー・コルディはオペレッタ『花咲ける道』(G.ゲタリ、J.ランティエ)52、『粗忽者』57も3年間。I.オーブレ61、グレコ62、マシアス62、G.ラッソ62、F.ソルヴィル62。1964年に映画館、1981駐車場のあと商店&事務所。
パリ3区、サン・マルタン大通り1《カヴォ・レピュブリク》1901,482席はベルト・シルヴァが再登場1928<白いバラ>で人気を博し、戦後マシアス63。近くにはベランジェ通りがあり、その街で亡くなったベランジェ(1780~1857)は近代シャンソン(日本でいうシャンソン)以前にひろく敬愛された国民的歌謡作家・歌手・詩人で、ゲーテやハイネほか国外の文豪らも賞賛したという。しかし没して3年後には評価が薄れました。作品はイヴトの王、おばあさん、民衆の思い出など。中世に二つあった大僧院のひとつタンプル騎士団の僧院名にちなむタンプル公園にはベランジェの石像があります。近いタンプル大通り「犯罪大通り」は映画『天井桟敷の人々』1945の舞台です。
この近くでは《マレ》劇場も通りかかりました。それは11区のボーマルシェ大通り10にあったエポック1899→シャンソニア1908→コンセール・パクラ1925-62の後身のようです。パクラは初めてのパリ1971で探して見つからなかったのは当然でした。おなじ大通り15に日本在住のフランス人歌手スブリーム先生に教わった楽器・楽譜店PAUL BEUSCHERがあり、店員のおすすめが気にそまぬまま「楽譜集」を買いました。それはあとで思わぬお買い得と気づいたのでした。
区の内側にもどるとマレ地区にピカソ美術館があって、まえに『ドラ・マール展』06.4を観たのですが、ピカソ好きの娘との付きあいで混み合っていた07.3にも訪ねました。(2019.2.18) 後藤光夫©