『聖書』が世界のベストセラーであるとともに、讃美歌<聖夜>はキリスト教徒ではない人びとにも親しまれ、世界じゅうで愛聴・愛唱されるベストヒット・ソングになりました。この歌はオーストリアの片田舎で、とうぜんドイツ語で書かれ作曲されて歌われたものです。わたしは日本語と英訳の<Silent Night,Holy Night>なら歌えますが、フランス語訳<Douce Nuit,Sainte Nuit>とドイツ語の<Stille Nacht,Heilige Nacht>は出だししか暗唱できていません。何語での歌唱の鑑賞も楽しいですが、シャンソンでほかのクリスマス・ソングも聴けるのはファンならではでしょう。コレクションでいつでも楽しめるのは、ティノ・ロッシ、ルイス・マリアーノ、ジャック・ランティエたちと、CDでは英語で歌っているナナ・ムスクーリです。もともとムスクーリは母国語のギリシャ語で歌っていたでしょうし、彼女は歌のコスモポリタンのようですから何カ国語かで歌えるのかもしれません。2010年現在、世界じゅうでは311もの言語に訳され歌われているそうです。
<きよしこの夜>の作詞者ヨーゼフ・モールは、オーストリア・ザルツブルク州に貧しい境遇で生まれました。才能を見こまれ神学をまなび聖職者になります。作曲者フランツ・グルーバーも同州内で職人の子に生まれ、教会で聖具係・オルガン奏者になります。やがて同教区内、聖歌誕生の舞台となるオーベルンドルフの教会オルガン奏者になり、そこにモールが赴任して同僚になりました。彼は1816年に書いた詩に、曲を付けてほしいとグルーバーに頼みます。それが出来あがり、1818年のイヴにふたりで、当日は子供たちと歌ったのでした。オルガンが壊れていて、初演はギター伴奏だったと伝えられています。この歌は好評で各地に知れ渡ったのに、作者たちのことは忘れ去られたらしい。チロルの村むらにも広がり、ミュージカル映画のトラップ・ファミリーのような家族合唱団によって歌われ、国内外に広まりました。作者不明のままではと、カトリックの修道会などが調査をしたようです。ザルツブルク大聖堂の聖歌隊員だったグルーバーの息子が1854年に、そのことを音楽教師になっていた父親に伝えて作詞・作曲の当事者と事情が公になりました。
オーベルンドルフの教会跡に建った礼拝堂へは1980.12.24にツアーで参りました。礼拝堂から帰ったあとは、大聖堂のミサの<きよしこの夜>を深夜までねばって聴いたのでした。いまもそのときの旅仲間は「チロル会」と名づけて、都内でときどき集まります。個人的にはザルツブルク市内でクリスマス市やヨーゼフ・モールの生家あたり(シュタインガッセ)も見歩きました。ウィーンではマリアヒルファー通りのクリスマス飾り、市庁舎まえの子供向けマーケットなどを酷寒のなか見まわったものです。飛んで、パリのクリスマス風景も目を楽しませます。シャンゼリゼ大通りの並木の電飾、コンコルド広場の観覧車(1998~)~ロン・ポワンのクリスマス市(2008~16)、隣りあう2大デパートの装飾商戦に子供たちは大喜び。シャン・ド・マルス公園にも飾付けがありました。
クリスマス・ソングとしていちばん好きなのはフランスにあります。バレエ曲『ジゼル』で知られるアドルフ・アダン作曲<Minuit,Chrétiens>1847です。Chrétiensはキリスト教徒の意味で、邦題には、真夜中のキリスト教徒、真夜中のミサ、アダンのクリスマス、さやかに星はきらめき、など。いつでも聴けるのは、マリアーノ、ランティエ、ムスクーリとアンドレ・クラヴォー。英訳された<O Holy Nightオー・ホーリー・ナイト>はテバルディ、パヴァロッティ、ドミンゴらが歌っております。シャンソンでは次曲も極めつきです。ティノ・ロッシの<Petit Papa Noëlプチ・パパ・ノエル>1946は発売年に600万枚も売り上げ、1978年2500万枚、2003年5000万枚と売れ続けています。ちなみにロッシには、録音曲数1014曲、総売り上げ枚数3億枚という記録あり。
芦野宏がクリスマスに歌うのは、きよしこの夜、アダンのクリスマス、ティノ・ロッシのレパートリーから葦原邦子訳1957のプチ・パパ・ノエルと薩摩忠訳の海のクリスマスNoël sur la Mer、以下も薩摩訳でトレネのクリスマスChanson pour Noël,1953、アーヴィング・バーリン1942のひとりのクリスマス(眠れぬ夜は)と原語でWhite Christmas(仏Noël Blanc)などです。最後に、ヴィーナーリートの会で習った<チロルのクリスマスのうた>Es wird schon glei dumper(独語)は、TVの字幕では<夜のとばりは訪れん>でした。ネットなら何種類か聴けるでしょう。(2018.9.18) 後藤光夫©