<ふるさとの山>を芦野宏の歌で聴いたのは1971年でした。芦野が1956年の初連続いらい、おなじヤマハホールでは15年ぶりに連続リサイタルを開いたときです。それははじめて聴く曲でした。そのときは<ラ・モンターニュ>という訳題でしたが、たちまち好きになりました。レコードの購入は創唱であれカバーであれ、芦野宏レパートリーのもと歌を優先するのが原則でした。ジャン・フェラがこの歌を1964年に作詞作曲して歌った邦盤LPの発売は1975年なので、薩摩忠の訳詞は仏盤をもとにしたのでしょう。『ラ・モンターニュ』は蘆原英了解説の邦盤LPのタイトルでもありました。「歌われる訳詞」は仏日翻訳の宿命で具象性は薄れますが、薩摩の意訳は歌いやすく詩人ならではの名訳だと思います。啄木からかりて略説すれば「…ふるさとの山はありがたきかな」
ラ・モンターニュ 薩摩 忠 訳(ジャン・フェラ詞) ジャン・フェラ曲
醸されて泡だつワインの色した朝焼けの山よ
頂きあたりにぼくの憧れを語りかけた山
尾根の向こうへの夢と憧れに この胸はときめき
若さと希望を心にいだいて町へ出てきた僕
ああ 離れていても瞼を閉じれば いつも浮かんでくる
忘れられぬ山 忘れえぬ山よ
ジャン・フェラとの出会いはもっと早くにありました。ルイ・アラゴンの詩<エルザの瞳>1942の作曲者としてです。1954年に若手のジャン・フェラと先輩作詞家モーリス・ヴァンデールが曲を共作しました。歌ったのはアンドレ・クラヴォー、同国内にカバーする歌手があまりいないようで、それは他の追随を許さないのでしょう。芦野宏は1959年に歌いはじめ、原詩で間に訳詩朗唱をはさみます。CD「芦野宏のすべて」とTVの録画にあり、2曲ともいつでも聴けるのはうれしい。
ジャン・フェラは1930年パリ近郊の生まれで後半生は南仏の寒村で過ごし、パリ公演にはそのつど上京したようです。移住した村で作って歌ったのが<ふるさとの山>で、彼の代表作となるほど大ヒットしました。『フランス人の好きな20世紀シャンソン・ベストテン』1988では、1子供を抱いて、…、5枯葉の上位の4位でした。出世作がアラゴンの詩への作曲でもわかるように、大先輩詩人に共感をよせ多くの詩に作曲しております。また、自作詩だけでなく他の作詞者のも作曲しましたし、自らのほかオーブレ、ジャンメールなど多くの歌手たちも歌っております。
LP「ラ・モンターニュ」にはアポリネール詩<戦場のバラ>のほか、アラゴン詩では愛ゆえに、戦いの日々、LP「FERRAT chante ARAGON」などに、聞こえる聞こえる、君がいなければ、旅路の果て、ふたり一緒に眠ろう、街の静けさのなかで、もし君に逢えずにいたら、リラ、ほか。
ジャン・フェラにはアラゴンの<友よ><マリア>のようなシャンソン・アンガージェ[政治参加]があり、一日のはじまり、恋人たち、小さな家、小さなビストロ、太陽の子供たち、などのように庶民とその街、彼らの愛をうたっているものもあります。いちおう、そうジャンル分けできるとはいえ、それらはすべてジャン・フェラの人間性において一貫しているものでしょう。
欧米の歌の日本語タイトルには、直訳または意訳して漢字・仮名にするのと欧米語の読みをカタカナ表記にするのとがあります。たとえば<ラ・メール>か<海>か、<ふるさとの山>か<ラ・モンターニュ>か、なんども歌われて馴染まれたほうに定着するならそれでいいでしょう。
歌詞の訳詞については議論があります。たとえば<愛の讃歌>で、よく歌われるほうは原歌詞の意味を伝えていないとか。でもその問題は、とうの昔にクリアされているとも思えます。「夕空晴れて…」の<故郷の空>大和田建樹作詞。原詩は「ライ麦畑を…」で、いわば旋律を借りた替え歌なのです。個別には微妙なところがあるかもしれませんが、<愛の讃歌>が訳詞はせずに作詞したのであれば「作詞」と表記すればなんの問題もありません。フランス映画の封切り前に原歌詞がなく、作詩したという<巴里の屋根の下>西條八十(田谷力三歌)の例もありました。(2018.6.18) 後藤光夫©