ふつう、観光客がパリではじめて間近に仰ぎ見る宗教建築はノートルダムでしょう。正式な名称はカテドラル・ノートルダム・ド・パリです。カトリックの総本山ヴァチカンのもと、司教の椅子(司教座、カテドラ)の置かれた聖堂(カテドラル)で、パリは格のうえで大司教がつかさどり、司教座聖堂、通常は「大聖堂」とよばれます。1971夏シャンソンのふるさと探訪が目的ではじめたパリ歩きなのに、教会(聖堂)めぐりなどが派生してフランス国内のほかスペイン(ブルゴス、レオン、サンチャゴ)、ドイツ(ウルム:新教、ケルン)と2012春まで及ぶとは、そのころは思いもしません。
建築様式として古くかつローカルなロマネスクにつづき、国際的にひろく伝播するのがゴシックです。ゴシック建築の発祥は時代も場所もわかり、1144年パリ北郊サンドニ(王家墓所、2006.4)といわれます。聖堂はふつう西正面を向いており、以下の大聖堂は内陣天上が高くなる順に列挙しました。カッコ内は特記事項、訪問年月です。パリ(ヴィオレ・ル・デュク修復、1971.7~2012.4に10度)、シャルトル(美しき絵ガラス窓の聖母、1981.11)、ブールジュ(サン・テチエンヌ5廊5扉、07.6)、ランス(国王戴冠式、微笑みの天使像、空爆後再建、ゴシックの女王、06.4)、アミアン(盛期ゴシック現存、黄金の聖母像、ゴシックの王様、06.4)。ブールジュのほかは名前がノートルダム(聖母)を冠した、つまり聖母に捧げられた聖堂で、それはフランス全土に約800はあるそうです。
さらに高いのはボーヴェのサン・ピエール(身廊なし、06.4)ですが、通常の聖堂建築のていをなしておりません。西正面には本体たる身廊がないので、空からは東が頭部となる十字架状には見えないでしょう。建物の内外とも補強材が痛々しい。往時の建築競争のせいです。床面積は千ないし万という全住民の収容がめやすで、町の財力とのかねあいで天をめざしさらに高みへと競いました。天上高48mの内陣は崩落後・再建され、いまでもフランスで最高の高さを誇ります。ちなみに、サンドニは20m台、パリ、シャルトル、ブールジュ、ランスは30m台、アミアン42mです。交差部(中央)の塔153mは、完成後まもなく倒壊しました。塔の一部が高所に残り、それを取りのぞく作業は石工たちが尻ごみし、かりだされたのは死刑囚です。首尾よく成しとげ、彼は釈放されます。未完ながら礼拝に使われており、聖堂内の係員は内陣の高さを誇らしげに説明しておりました。
フランク・トマ(1936-)作詞、ジルベール・ベコー作曲<はじめての大聖堂>1975はベコーが歌います。ルフラン「これほど建物が星に近くなったことはない/はじめての大聖堂/ハレルヤ」をくり返し、クープレ「建築職人は全国各地からきて、土台づくりのために三度も地中で冬を越す」。ゴシック建築では基礎に地上と同じくらい膨大な石材を使うこともあり、「石工は円天井を、ガラス職人は明かりとりをこしらえた」、神は光なり「太陽が聖堂のとりこになるように」というわけだからです。「鐘楼もできて、まちのゴロツキどもも罪を悔い、1300年」「司教が杖で扉をたたき、人びとは歌い、説教をきき、ひざまずく」。ゴシックの最盛期に献堂式が挙行されたのです。
修道士は記します「紀元1003年ごろからフランスでは、諸聖堂が基礎から屋根に至るまで改築されました。新築するほど古くないものまで、壮麗なものにしたいと競って建てたといわれます。まるでボロを脱ぎすてて『白い衣』を身につけたように。それは大聖堂だけでなく、修道院聖堂、町や村の小聖堂にまで及びました」。美術史家いわくロマネスク後期~ゴシック末期「1050~1350年の300年間で大聖堂80、大教会堂500、教区教会堂が数万、建て(替え)るため、数百万トンの石材を切り出した」と。その背景には、紀元1000年は世の終末、最後の審判、無事に過ぎた感謝の気持ち、それに聖遺物の発見多数、安置する聖堂を立派にしたい、聖母マリア崇拝の広まり・高まり、などがあります。山深い村には<小さな教会>がそのままのこり、豊かな都市では「はじめてのゴシック大聖堂」ができました。ケン・フォレット『大聖堂』原作と映画もおすすめです。
<はじめての大聖堂>はベコーに多くを作詞してきたL.アマード、P.ドラノエ、M.ヴィダランではなく、F.トマの作詞ですが彼はベコー以外の歌手・作曲家たちにも歌詞を提供しているようです。ベコーには<愛は友達>1976もあり、芦野宏はできてすぐに歌いました。(2018.2.18) 後藤光夫©