ロベール・デスノス(1900-1945)はジャック・プレヴェールと生年がおなじで、生地はおなじパリでも都心に近い旧中央市場かいわいの下町です。境涯も彼の短い生前(第2次大戦直後まで)は似ております。兵役のあとに、シュルレアリスム[アポリネールの造語]では同志であり、彼とはすぐ親友になりました。早くに詩作をはじめていたデスノスは、超現実主義運動の申し子といわれます。催眠術で夢を自動筆記したり、言語遊びがうまいのでした。やがてこの運動から離れますが、詩作のほか台本執筆、映画評、ラジオ番組・CMなど大衆のための仕事に励みました。
そうしたなかデスノスは苦しい片思いを経験します。お相手は4歳年上で三大現実派歌手(ダミア、フレエル)のひとりイヴォンヌ・ジョルジュです。女神のように崇拝していたのに、彼女は彼に魅力を感じなかったとか、いや愛し信頼していたとも。彼の無償の愛、純愛のあかしは<ぼくがきみをあまりに夢みたために>に残ります。「モンパルナスのミューズ」「ギルベールの再来」とも称された彼女は30代半ばで病死、歌手活動わずか8年ほどで、代表曲は<ナントの鐘>など。
LP『モンタン詩人をうたう』(SFL7343)の詩人9人12曲のなかにデスノスは2曲です。ミシェル・ルグラン曲<彼女とともに眠る>は、よりそいあったまどろみに/似かよいあった夢を見に/重なりあった吐息のために/……(鎌田紘次訳)とあり、イヴォンヌのことでしょうか。題が薮内久訳<ノアの鳩>、蘆原・鎌田訳<アーチの間柱>はシュールとしかいいようのない内容です。
ベルギー出身のリュシーはカフェ・ロトンドで画家の藤田嗣治に一目ぼれして結婚し、夫からユキ(雪)と愛称されました。デスノスは彼女にモンパルナスのバー・シゴーニュで逢い、公認の恋仲になります。画伯の甥・蘆原英了いわく、彼女ははじめは可愛かったのに酒豪で浪費家で優しいフジタをコキュ(寝取られ男)にしたらしい。デスノスが3歳下のユキと1931年に結婚したのです。彼女は文学少女で多くの詩人や画家たちについて知識も交友もありました。デスノスはまたパリ滞在中1930の詩人・金子光晴とフジタの家で交流があり、光晴の妻・森美千代の詩の仏訳を直してあげています。デスノス&ユキは相性がよかったのでしょう、結婚生活は幸せな日々だったようです。
詩集『お話うたとお花うた』1955には、たとえばこんなのがあります。<蟻>長さ18メートル/頭には帽子/そんな蟻はいるわけない/ペンギンやアヒル積んだ車を引っぱる/そんな蟻はいるわけない/フランス語…も話せる/そんな蟻はいるわけない/でも いて わるい?(薩摩忠訳)
ジョセフ・コスマは曲を付けて1950、まだ持ち歌の少ないジュリエット・グレコに提供しました。岸洋子はこの訳詞で録音します。もう1編は残念ながら、タイトルだけ。<ペリカン>です。
デスノスは1939.9第2次大戦に主計軍曹として動員され、40.8パリ帰還、レジスタンス運動に加わります。44.2パリの自宅でゲシュタポに逮捕され、国内外の収容所をたらい回しされました。途中でチフスにかかり、チェコのパルチザン(抵抗軍事活動)によって解放されたテレジン収容所病院で1945.6亡くなります。終戦1カ月後でした。つぎの詩の「きみ」とはユキのことです。
最期の詩 1945 飯島耕一訳 朗唱マリアンヌ・オスワルド(03.10蘆原コレクション鑑賞)
ぼくはこんなにもつよくきみを夢みた/こんなにも歩き、こんなにも話し、/こんなにもきみの
影を愛した。/ぼくはきみ以外の何 も残らないほど。/ぼくには多くの影のなかの一つの影にな
る道が残されている。/影よりも千倍も影であること/きみの日の光にみちた生命のなかを往き
来する影となることが。
プレヴェールは「親友デスノスと散歩した…」という長い追悼詩「今日」を書きます。
パリ、シテ島東端にデポルタシオン(ナチス収容所犠牲者の霊廟)があり、1982.8詣でました。鉄柵の内側に真っ赤な花が供えられ、内部は明るく照らされています。デスノスの<最期の詩>も納められているそうです。2010.4には曜日・時間制なのか柵の前までは進めませんでした。
デスノスの墓はモンパルナス墓地にあり目立たなくて探しにくいのですが、ボードレール、ゲンスブール、サルトル&ボーヴォワールとともに2006.4.17お参りしました。(2017.9.18) 後藤光夫©