イヴ・モンタンのLPのなかに『モンタン詩人をうたう』(SFL7343)があります。9人の作品、全部で12曲を歌っていて、そのなかのポール・エリュアール(1895-1952)は2曲です。エリュアールの生地はパリ北郊のサンドニ市で、わたしは2006.4うかつにもそれは忘れて訪れました。シャンソンから派生した趣味の教会建築めぐりの一環で、ゴシック様式が創造された教会を見たかったからです。大佛次郎が『パリ燃ゆ』の取材で訪れた、サンドニ美術歴史博物館は見学しました。
ひとは皆そうで、とくに詩人はそうなのでしょうか、エリュアールは恋多きひとです。何人に恋したのか、歴史に名が残るのは4人いて、結婚したのはそのうち3人です。初恋がみのり結婚したのは同い年22歳で愛称ガラ、彼女には<恋する女>1923を捧げています。
恋している女 L’Amoureuse 曲フィリップ=ジェラール、歌モンタン、薩摩 忠 訳
彼女はぼくのまぶたの上に/そうして彼女の毛はぼくのそれのなかにある/彼女はぼくの手のか
たち/彼女はぼくの瞳の色/彼女はぼくの影に呑まれる/空にむかって投げあげた小石のように
アラゴン、プレヴェール、デスノスはエリュアールと同世代のすこし後輩ですが、文芸・社会活動において同志だったり、離反したり、和解したりの仲間です。プレヴェールに詩集を贈った献辞には「世界でもっとも美しいシャンソンの作者へ」とありました。彼は第2次大戦中にも愛の詩、虚偽と貧困に抗する詩、祖国の自由が危機に瀕したときには抵抗詩を書きます。画家サルバドール・ダリのもとから帰らぬ奔放なガラとは離婚し、1932年に愛称ニューシュと結婚、彼女には対ナチス・レジスタンス詩として有名な<自由 Liberte>(詩集『詩と真実』1942所収)を捧げています。この85行もの長編詩、最後の3行は次のようです。
ぼくは生れたのだ おまえを知るために/おまえに名づけるために/自由 と。(大岡 信 訳)
詩人みずからとジェラール・フィリップの朗読が残っており、名優のはYouTubeでも聴けるでしょう。エレーヌ・マルタンは作曲して歌っています。フランシス・プーランク作曲の歌曲もあるようです。TVでは、フランスの地方にあるフレネ学校で小学生が暗唱朗読する光景を見ました。
1946年、エリュアールはつつましいニューシュに先立たれます。その絶望を癒してくれたのは、若いジャクリーンと彼女の夫トリュタでした。彼女には『記憶すべき肉体』を捧げており、エリュアールはいっそう平和活動に専念します。そんななかで1949年にジャーナリストのドミニクとメキシコで知り合い、51年ピカソ夫妻の立ち合いのもとで結婚しました。この年、日本でピカソ展。その前後にかけて、国内のほかイギリスをはじめ10カ国をかけ巡ります。しかし52年には死が訪れました。「有利な結婚相手」と見こんだ20いくつも若い彼女は、「そうではなかった」と慨嘆したようです。でも、ドミニクには<君を愛する>1951が捧げられました。
きみを愛する Je t’aime 曲フィリップ=ジェラール、歌モンタン、薩摩 忠 訳
きみを愛する ぼくが知りあえなかったあらゆる女性のために/きみを愛する ぼくが過ごせなか
ったあらゆる時代のために/ひろびろとした海の匂いと焼きたてのパンの匂いのために/……
おなじ詩集『不死鳥』51のなかの<春>は自然をうたいながら、想いはドミニクに向けられているようです。バルバラが節づけてしみじみと歌っております。
エリュアールは多くの画家をたたえ、協力しました。フランシス・プーランクが作曲した『画家の仕事』でみてもピカソ、シャガール、ブラック、グリス、クレー、ミロ、ほか。シュヴァリエ・ファンだったプーランクはエリュアールとのコラボは不滅のコンビといわれたのでした。
詩人がうたうのは愛や恋や芸術賛美、平和の願いだけではありません。アポリネール1911やデスノス44と同じように、エリュアールも『動物詩集』20を出しています。
実地に訪ねたエリュアールゆかりの地は少なかったのですが、いま永遠の眠りについているペール・ラシェーズ墓地、J.-B.クレマンの背後の墓碑にはなんどかお参りしました。(2017.8.18) 後藤光夫©