わたしの南仏の旅1979は、ジャック・プレヴェールが好んだサン・ポール・ド・ヴァンスを訪ねるのが主目的でした。それがイヴ・モンタンとの邂逅をもたらし、起点にしたニースでは花市場クール・サレヤほか市内のほぼ全域を歩きまわりました。ここではルイ・アラゴン(1897-)&エルザ・トリオレ(1896-)夫妻の逃避行をたどります。ニースの旧市街は旧イタリア領でもあり、フランスが地理的に内包するモナコ公国のすぐ先はカンツォーネ・ファンにおなじみのサンレモです。つまり隣国、当時ムッソリーニのイタリア軍は1942.11ニースに侵攻してきました。そのためアラゴンとエルザはここを脱して、転々とした地下生活にはいります。そのひとつがリヨンです。
パリ南東に位置するリヨンは国内第2の都市に甘んじておりますが、紀元前から後2世紀まではガリア(ケルト)の首府でした。訪ねたおり07には、現地ガイドの説明にパリへの対抗心みたいなものが感じられたものです。第2次大戦のご時世、リヨンは「レジスタンスの首都」とよばれる枢要な場所でした。アラゴン夫妻は1943.1から雑誌編集者の家の屋根裏部屋を借りて住み、彼は「抵抗運動」を組織します。そのころレジスタンスの指導者ジャン・ムーランは各地のリーダーたちに会い組織をまとめておりましたが、志なかばでゲシュタポの逮捕後にパリで死亡しました。
リヨン市内には隣接する建物の下を迷路のようにくぐり抜けられるトラブールという路地が随所にあって、ツアーのわれわれもいくつか通りながら説明をうけました。これがレジスタンスの活動におおいに役立ったということを。ここはアラゴンのうたう<神秘都市>1943なのです。リヨンは危険都市でもあり滞在は43.7までにし、より南の静かな場所で暮らしました。リヨンやパリに旅をしながら。1944年パリ解放のまえリヨンで書かれたのが<幸福な愛はない>1943です。
幸福な愛はない ルイ・アラゴン詩 田中淳一訳(1節・5節)原詩は5節まで
人間がたしかに手にいれたものはない その強さも/弱さも おのれの心でさえも 両腕をひろげ
たつもりでも/影は十字架のかたちを映している/わが幸福を抱きしめようとしては砕いてしま
う/人間の生は奇妙なつらい別離なのだ/幸福な愛はこの世にない
……
苦しみのつきまとわない愛はない/心に傷を残さぬ愛はない/心に烙印を残さぬ愛はない/きみ
への愛も祖国への愛も同じこと/涙を糧に生きていない愛はない/幸福な愛はこの世にない/
だがそれがぼくら二人の愛なのだ
この詩は、隠喩が多くてむずかしい<エルザの瞳>よりはわかりやすい。内容は同じようにエルザと祖国への愛をうたう讃歌です。アラゴン本人の短い解説はこういいます。フランスが占領の不幸という事実、悲劇的な諸条件のもとで、どうして幸福な愛をもつことができたでしょう?
G.ブラッサンス作曲1953によるこの<幸福な愛はない>は、本人はじめ4節まで歌うひとや5節までの歌手をYouTube以前に9人ほど聴きました。映画『8人の女たち』02で聴いたのは『うたかたの恋』35から67年後のダニエル・ダリュー、好きなのはやはり5節までのエレーヌ・マルタン、4節までだけどミシェル・アルノーということになります。アルノーはおなじ曲で<祈り>も歌い、ジャック・ドゥーエはレオ・フェレ曲の<幸福な愛はない>を歌っておりました。
アラゴン&エルザ夫妻は第2次大戦後も平和と自由のために活動し、詩・小説・評論をたくさん書いています。1953年イヴ・モンタン公演は夫妻で鑑賞。いずれモンタンはアラゴンの詩も歌うでしょう。五月革命1968には夫妻で出かけて学生に共感を示すものの、野次られました。70年に長年の伴侶エルザを失います。奇矯な言動がはじまり、戦前戦後の「A事件」「独裁」などもあり毀誉褒貶のひととも評されました。世界の文学・歴史に通じ、ピアノ・ダンス・ポーカー・弁舌いずれも強く、美男子でパリじゅうに顔がきいた彼も82年クリスマス・イヴに亡くなります(85歳)。
20世紀末のこと、墓参を思いたち観光局で尋ねたら駅から遠いとわかり、あきらめました。いまはネットで、シャルトルへの途次に寄れるサン=タルヌーの墓地にお参りできます。(2017.6.18) 後藤光夫©