歌めぐり旅(6)ミラボー橋

  パリ市内に架かる橋はいまや37本もあるらしい。観光スポットからはずれたミラボー橋へは、初パリ1971以来なんどか出かけました。橋脚に4体の海神像があるだけで、「平凡で風情がない」とかいわれますが、いまはネットでも仔細に眺められ、地味ながら好きな光景です。

 橋の名前をタイトルに「詩」を書いた詩人は、ギヨーム・アポリネール。ローマ生まれで父はチロルの名家出の軍人(?)、母はポーランド系貴族の末裔です。アポリネールは若くして<恋心>をいだき恋愛し国外へも旅しますが、この橋を舞台にしたお相手はマリー・ローランサン。田舎出の母と羽振りよく養育費をくれる父との間にパリで生まれました。名前を見るだけで、独特なやさしい人物画を思い浮かべる方も多いでしょう。舞台装置、詩、服飾デザインも手がけ、絵の人気には本国でもまれな日本における絵画展、作家の評伝、個人美術館などが貢献しているらしい。この詩を日本に紹介したのは、1915年マドリードに亡命中のローランサンに邂逅し、彼女に「日本の鶯」と詠われた堀口大学で、彼女からモトカレのアポリネールのことを教わったのです。

 成人まえは南仏でその後パリに住むアポリネールは、1904年の「洗濯船」からパリ住まいをはじめたピカソに出会いました。このころからピカソ、マックス・ジャコブ、ブラック、アンリ・ルソーほか画家・詩人たちとの交友がはじまります。1907年ピカソに「きみのフィアンセに会ったぜ」と画学生ローランサンを紹介されました。彼は彼女を「小さな太陽」とよび、のちにジャン・コクトーが「野獣派と立体派のなかにあって 罠にかかった小さな牝鹿よ」とたたえたローランサンにほれこみました。アポリネールは「やさしいゼウス」と慕われ、「ローマ教皇」のように君臨します。現代詩のさきがけ、キュビスムなど現代絵画の擁護、シュルレアリスムの演劇活動、新精神の主張など文壇・画壇においてギリシャ神話やカトリックのトップのようだったから。ミラボー橋を中央奥に配した、彼女の集団肖像画「アポリネールと友人たち」1909はその頃のものでしょうか。

 彼らの相思相愛はしばらくつづきました。右岸で橋に近いオートゥイユのラ・フォンテーヌ街にはローランサン母子が住んでいて、アポリネールは近くのグロ街さらにラ・フォンテーヌ街へと引っ越します。しばしば逢瀬を楽しんだことでしょう。なのに破局、一因はルーヴルのモナ・リザ盗難事件1911です。彼は無実でしたが、縒りは戻りません。かくて詩が生まれました1912。

   ミラボー橋    ギヨーム・アポリネール 堀口大学訳

 ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ/われらの恋が流れる/わたしは思い出す/悩みのあとには楽しみが来ると/日も暮れよ/鐘も鳴れ/月日は流れ/わたしは残る ……

ラ・フォンテーヌ街、グロ街、橋とたもと周辺は1971,78,2010,12年に行きつ戻りつして、欄干の市章と後景にエッフェル塔を遠望してパリの歴史をしのび、銘板さがしには手間どりました。

 この詩にはレオ・フェレが作曲し1952、自身ほかが歌います。芦野宏は55年から原詩で歌いつづけ、岸洋子は薩摩忠訳詞で74年の発売です。イヴェット・ジローのTVアデュー・ジャポン1997の映像は録画してあります。ジャック・ラスリー作曲の<ミラボー橋>は、ミシェル・アルノーが歌っておりました。作曲ルイ・ベシェール、歌セルジュ・レジアニもあると教えていただき、ご自身が歌ってくれたのは札幌の大平信幸氏でした。アポリネールが1914.5.27ソルボンヌで朗読・録音したミラボー橋は、堀口大学がTV『人に歴史あり』で聴かせてくれたときに録音しました。

サン・ジェルマン大通りに終の棲家があり、教会まえのアポリネール通りはそれに因むのでしょうか。第1次大戦には兵役中もルー、マドレーヌらとつきあい、戦傷を負って入退院、1918年ジャクリーヌと結婚しましたが7カ月後に急逝。ペール・ラシェーズ墓地ではローランサンとは離れた区画に眠っております。敵国ドイツ人との結婚により亡命した彼女は、やがて離婚。恋多きアポリネールとは生涯・永遠の恋人どうしでした。堀口大学訳<鎮静剤>は「もっと哀れなのは 忘れられた女です」と結ばれておりますが、ローランサンはそのような女性ではありません。(2016.10.18) 後藤光夫©

ミラボー橋 右岸 下流からの眺め
ミラボー橋 右岸 下流からの眺め

欄干に市章 パリの歴史が見える
欄干に市章 パリの歴史が見える
右岸 橋のたもとの詩碑
右岸 橋のたもとの詩碑
詩人庭園の詩碑 L’ADIEU
詩人庭園の詩碑 L’ADIEU
86区画
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88区画
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