1971年以来パリ20区すべてに足をふみいれ、気にいりスポットは一再ならず歩きまわりました。10度の滞在で延べ1カ月半ほどですが、2014.5に7度目を断念したウィーンも同じようなもの。いまは、映像・再生音だけの見聞・鑑賞ならGoogle、Yahoo、YouTubeなどで十分なわけで、いい時代になりました。そうした享受には乗り遅れましたので、実地踏査にネットも多少まじえてパリにシャンソンのゆかり、ここでは<さくらんぼの実る頃>にえにしのある地を訪ね歩きます。
まずは<モンマルトルの丘>から。ものの本(1955)には「サクレ・キョール寺院まで上ってゆく途中にクレマン町がある。『さくらんぼの頃』に敬意を表してつけた」とあります。町名はのちに失われたのでしょうか。歌の作詞者は若年よりモンマルトルになじみ、モンタンがうたう<ルピック通り>に住み、パリ・コミューン時には村長に推されます。そんな土地柄ゆえに、ジャン=バチスト・クレマン広場です。この小広場は彼が住んだ通りの起点あたりに傾斜地を占めています。雑草と小木のみなので、だれもが立ち寄らずに通りすぎてしまうかも。1971年夏は画家のエッセイで知り、ミシュラン地図でたどりました。いまならネットで文書・地図・画像、現地はスマホが案内してくれるでしょう。2012年春の再訪時、銘板には人名のほか生没年・コミューンの英雄・この歌の作者などとあります。<バラ色のサクラと白いリンゴの花>ならぬ薄紫と白い花木が美しい。
パリ・コミューンの終焉に近い激戦地のひとつ、フォンテーヌ・オ・ロワ通り(街)を歩いたのは1979年冬でした。戦後の復興いまだしと見まがいそうな粗い外壁が通りに面していました。2012年春には、長い留守中にできたらしい歴史案内板が市内各地で目につきます。もしやここにもと期待してベルヴィル通りに近いほうを重点的に探してから、テンプル通りへ抜けました。ピンクの八重桜にしばし歩みを止めます。いまならネットがご教示の銘板には、激戦から逃げおおせたJ.-B.クレマン、逮捕・銃殺されたE.ヴァルラン、逮捕・死刑に処されたT.フェレの名前と史実、オマージュなどが刻まれています。ベルヴィル通りより内側のサン=モール通りからさらにテンプル通りに近いところで、あまり目を向けなかった奇数番地側にありました。偶数番地側には2階に小さな鯉のぼりが2匹飾ってあって、かわいい男の子と若い母親を想像して見とれていたのでした。
ペール・ラシェーズ墓地は初回には行きそびれ1978年冬に訪ねました。管理人がくれた地図も頼りに「連盟兵の壁」を見つけると、向かいはクレマンの墓標です。黒ずんでいた肖像が、2006春の再訪時には赤いサクランボと緑の葉に彩色されていました。ウィーンの金ピカのJ.シュトラウスⅡ像も、むかしは<グラン・ブルヴァール>の胸像のように地味でした。2010、12年にも墓参。供花はメーデーあたりが最多でしょうが、年中のようにも見うけました。出くわしたウジェーヌ・ポティエはパリ・コミューン最大の詩人で、「血の週間」翌日に書いた<インターナショナル>はこの国ではよく歌われるでしょう。パリ・コミューン記念碑は「壁」のはるか斜め向かい、ビゼーの近くに、モンパルナス墓地では詩人デスノスの反対側にあり、ともに2006年に詣でました。
カルナヴァレ歴史博物館は再訪時2012.4.15パリ・コミューンの年代が閉鎖中で残念でした。
パリの下町に庶民的なカフェ・レストランLE TEMPS DES CERISESがあると知ったのはTVの街歩きでした。復活祭休日や夏至音楽祭で愛嬌のいいマダムたちに閉め出されたりして、やっと店内で憩えたのは2010年。番組で見たとおり、店内外にかわいい絵と人形が飾られています。このときには彼女らは不在で、無愛想にみえて実は気のいいひげ面の若い店番と長話の客がおりました。道順はバスチーユ広場からサクランボ畑Cerisaie通りをたどればわかりやすいのでした。
パリ・コミューン広場は左岸にあります。1871.5.25この高台でコミューン側はヴェルサイユ軍の挟撃にあい、一部が退却し他は降伏しました。2012.4イタリア広場から南西方向、途中で西へたどるビュット・オ・カイユ通りがバロール通りに突きあたる前の広場です。「うずらが丘」と呼ばれるように、ウズラが多かったらしい。通りにはLE TEMPS DES CERISES、Le Merle Moqueur、La Folie en Teteというレストラン、バーが斜めに向かいあいます。<さくらんぼの実る頃>1番で聴く詩句です。途中で井戸水の豊富なヴェルレーヌ広場にも立ち寄りました。(2016.3.18)後藤光夫©