ベル・エポックの始期はパリ・コミューン特赦の1880年、東南アジアやアフリカ沖に植民地・保護領を獲得した1885年(普仏戦争敗北後15年)、第3回パリ万博の1889年など諸説あり、終期は1914年の第1次世界大戦。1880年には7.14の革命記念日が国の祝日になり、舞踏会・閲兵式もより華やかに。フランスは1870年代なかば以来の経済不況を脱して、1889年に革命百周年記念万博を開催しました。エッフェル塔がたち、創業ムーラン・ルージュの舞踏場、カンカン踊りが大盛況。1852年パリ初のデパート、ボン・マルシェも大繁盛。万博は1900年にも開催され、展示会場グラン・パレ、プチ・パレ、豪華な橋も新設。電気照明、電話、自動車、開通したメトロ、アール・ヌーヴォー様式の建物、鉄道に飛行機です。映画も発明、遊園地<ルナ・パーク1909>(パレ・デ・コングレ1974)はモンタンが歌うとおり。しかし享受できたのは有産階級、中流階級くらい。風俗は退廃し、ブーランジェ将軍事件、パナマ疑獄、テロあり、労働争議が頻発しました。
19世紀なかばオッフェンバックにはじまるオペレッタ熱はつづいています。すこし前に開業したカフェ・コンセール(略称カフコンス)は1865年に規制緩和されてシャンソンも活気づきました。<そのつもりでも>の詩人レイモン・クノーは「あの時代ひとびとは歌っていた、パリ、奇妙で素晴らしい街よ、その頃は274のカフェ・コンセールがあり、毎年1万2千の新しい歌が世に出されていた。これこそがベル・エポック、古きよき時代だった」と。1900年には300軒とも。1871年からカフコンスのミュージック・ホール化もすすんで繁盛します。従来のキャバレ、シャンソニエも加えたライヴは全盛期を迎えて、ベル・エポックはシャンソンの黄金時代ともいわれます。
画壇では、1872年第1回展以来(最後8回1886)の印象派画家たちが地盤をきずき、ピカソ、エコール・ド・パリのモディリアニ、シャガールなど外国勢も加わります。マネ、ドガ、ルノワール、ピカソたちはカフェ・コンセールも描きました。ルノワール「カフェ・コンセールLa Premiere Sortie」、ピカソ「女性歌手La Diseuse」など。第2帝政崩壊から大戦までシャンソンの中心だったアンバサドゥール(現エスパス・ピエール・カルダン)はマネ、ドガのお気に入りのようです。
ベル・エポック風景を絵画で見るには、カルナヴァレ歴史博物館がいいでしょう。
ベル・エポックの歌手は年齢順にブリュアン、ギルベール、弾き語りの元祖フラグソン、最大の人気者マイヨール、レヴューの女王ミスタンゲット、女性で人気最高ポレール、アンナ・チボー、シュヴァリエ、など。このころの歌でいまも親しまれるものはあんがい少なく、白いバラ、フルフル、辻馬車、魅惑のワルツ、パリの橋の下、など。いつの世でも時代のふるいにかけられます。この社会現象「よき時代」も1914年、第1次大戦勃発という未曽有の事件で終焉を迎えました。
すこし時代をさかのぼって、<さくらんぼの実る頃>は「1867年にアントワーヌ・ルナールがミュージック・ホールのエルドラドではじめて歌っている」そうです。ルナールはこの曲を作った歌手。楽譜出版1868のまえでも作曲者なら手書きで公の場でも歌えたのでしょう。のちに「よく歌われて普仏戦争後、猛烈にはやり」、1871年「バリケードのなかで歌われた」ともいわれます。その状況下でスローワルツの歌は鼓舞も慰撫も想像しにくいですが、「殺気だった気分を和らげるのに役立った」とも。死刑判決を大赦で免れて9年後に帰国したクレマンは、パリの人たちが折にふれ歌っているのを耳にしたという。「カフェ・コンセールでもっとも長くヒットした」のは、1904年にデビューしたロマンスが得意なアンナ・チボーたちの活躍によるのでしょう。歌手と聴衆みんなの恋の歌、追悼歌はベル・エポックのフィナーレをこえて今日も愛されつづけております。
20世紀後半~21世紀初頭われわれが親しむシャンソンは、ベル・エポックの30年間よりトレネによる革新的な歌づくりもあり1930~70年代の40数年間のほうが黄金時代といえる、いわば「シャンソンのベル・エポック」ではないでしょうか。パリの屋根の下、パリ祭、ラ・メール、バラ色の人生、枯葉、ア・パリ、愛の讃歌、ドミノ、詩人の魂、エルザの瞳、水に流して、私の神様、コメディアン、雪が降る、恋心、バラはあこがれ、恋のやまい、……。やや自分史的ですが。
ウィーンのベル・エポックは?「ビーダーマイア」1814~1848ではいかが。(2015.11.18) 後藤光夫©