<さくらんぼの実る頃>はフランスでは知らないひとはないといわれるほど有名なものと、ある解説は述べております。ラパン・アジルといえば、観光客にも知られるモンマルトルの老舗シャンソン酒場です。1900年代のよき時代、地主A.ブリュアンに経営を任されたフレデおやじを、ピカソが自画像とともに「ラパン・アジルにて」1905に描きました。ピカソやアポリネール、モディリアニ、ジャコブ、マッコルランたちは、小金がはいるとハシゴの最後はこの店でフレデがギターの弾き語りで歌う<さくらんぼの実る頃>を聞きながらグラスをまえに夜あけまで語りあかしたのだそうです。コラ・ヴォケールは1946年ごろ夫の作詞で店主の<フレデ>を懐かしみ歌います。
彼らが売れてきて、丘をくだってからのことでしょう。イリヤ・エレンブルグ(1891-1967)はソビエトの作家・新聞特派員ですが、20世紀初頭からパリにながく住みつき、故国と行き来しております。モンパルナスのカフェの常連で革命家のレーニン、画家モディリアニ、ピカソたちとも親交がありました。彼の評論集(1959)のなかの「フランスの詩」には「パリにきて、桜ん坊の実る頃を歌った恋の歌をきかなかったものはあるまい」とあり、歌の由来なども記しています。
わが国がシャンソンを受けいれはじめたのは、昭和(1926)を迎えたころといわれ、アジア・太平洋戦争(1937~・41~)が始まる10年まえのことです。昭和2(1927)年に宝塚レヴューで<モン・パリ>が歌われたのがはじまり、というのが定説でしょう。そして、<すみれの花咲く頃>ほかとつづき、それらはSPレコード化もされます。昭和7(1932)年、はじめて「シャンソン」ということばでSP<聞かせてよ愛の言葉を>が発売されました。おなじ頃、映画『巴里の屋根の下』1930、『巴里祭』1933の主題歌がもてはやされ、昭和13(1938)年からはシャンソン・ド・パリ第1集という、後続するレコード全集が出るのです。この時期を「戦前のブーム」とみなすこともありますが、戦時には自粛ないし禁止同然でしたから、それは数年間にすぎませんでした。
敗戦(昭和20,1945年)後、敵対した英米仏など敵性音楽が解禁され、ジャズ、ラテン、タンゴなどにすこし遅れて1956(昭和31)年ごろから「シャンソン・ブーム」がわきます。マスコミは「静かなるブーム」とよびました。翌年、帰国まもない蘆原英了は、芦野宏の帰国、ジローの来朝、ふえるシャンソン喫茶(注:都内に約30軒)などが実態ではと「シャンソン」誌に記します。戦前につづく宝塚・日劇と国内外歌手のリサイタル・ガラコン(巴里祭など)、洋画・ラジオTVほか、こうしたシャンソン熱はわりと長くつづき文化現象になり、いまに糸をひいているのです。
さて<さくらんぼの実る頃>が日本でひろく知られるようになったのは、冒頭のある解説(1958)のつづきでは「ここ数年前のこと」とあります。それはシャンソン・ド・パリ(前出のコロムビアSP盤)が第7集のあと戦時中とぎれて、戦後1955(昭和30)年、ティノ・ロッシ歌と吹込み・AnnaTHIBAUD演目という楽譜(写真)による古い録音(1938)を含む第8集が発売されたからでしょう。この55年には、イヴ・モンタン、コラ・ヴォケールの邦盤も出ていたようです。当時、前掲誌の人気投票で連続No.1の芦野宏は、初渡仏(1956.10)の前年あたりにすぐさまレパートリーにしました。後年、アイドル歌手主演の映画にも客演で歌います。彼は明るい歌、コミカルな歌、魅惑的な歌もとりいれて、日本人が受けいれるシャンソンのイメージをゆたかなものにしました。
<さくらんぼの実る頃>はこの国のシャンソン・ファンや歌手のあいだで、いまでももっとも愛されているもののひとつといってもいいのではないでしょうか。こんにちでは、邦人歌手のパリ・コンサートは珍しいことではないようです。そして、この歌をプログラムに載せることも多いらしい。地元の反応、「また…」のつぶやきは、やはり彼らも好きなのだと受けとめたい。
ヴィーナーリートには、そのファンをこえてひろく愛されているものがあります。<ウィーン、わが夢の都>です。シュランメルといえば楽団演奏、または歌唱の伴奏として独特な伝統的ウィーン音楽ですが、鮫島有美子共演の演奏会2001でのことでした。やはりこの歌なしでは終われない、と彼女が告げます。楽員のうんざりニヤニヤと揺らぎのあとで爽やかな演奏、とても楽しいコンサートでした。邦人好みの歌への仏墺の反応にはなにか似通うところがありませんか。(2015.7.17) 後藤光夫©